250栗原万歳

妄想小説

牝豚狩り



第五章 三箇月後

  その12



 男が、アイドル的人気の全日本代表女子バレーボールチームの選手を、次の牝豚狩りの獲物ターゲットにすることを思いついたのは、テレビでアジア予選大会の試合中継で、敗戦が濃厚になってきたあたりだった。
 (このままいけば、間違いなく予選落ちだな。)
 男はそう思った。マスコミに煽られて急激に加熱した女子バレー人気は、これで急速に冷めていくのは間違いない。今が絶好の機会だと男は判断したのだった。
 ターゲットとして狙うのは、栗原瞳しかいないと、男は最初から思っていた。愛くるしい笑顔と、それに不釣合いなはちきれんばかりの体躯。肉感的な肢体は、マニア達の心を惹かない筈はない。汗の混じった女の匂いに蒸せるような運動着とブルマ。むっちりした締まった太腿。これらのものを上手く演出すれば、女性警察官で過熱気味の掲示板に群がる客たちの目を、一旦別の方向へ向けることが出来るかもしれないと男は思ったのだった。

 放送予定から、全日本のチームが帰国する日時を割り出すと、男は計画を練り始めた。


 あの日は、試合で調子に乗り切れず、それだけでも落ち込んでいたのだが、監督から、成田空港での記者会見のことを聞かされて、それを考える度に、瞳は憂鬱になっていた。
 (自分の調子のせいで負けたと言っても、決して言い過ぎではない。)
 瞳は自分自身そう思い込んでいた。予選大会会場のバンコックにも、相当数の日本からの報道陣が詰め掛けてきていた。それから察しても、成田での記者会見は、相当大変なものになることが予想されていた。実際、瞳も逃げ出したい気分だったのだ。

 男が近づいてきたのは、仲間に「暫く独りにしておいてほしい。」と告げて、到着ロビーの奥にある待合ベンチから少し離れた場所の長椅子に一人佇んでいるときだった。
 黒っぽいスーツに細めのサングラスを掛けた男がそっと瞳に近づいてきて、横に座ると、そっと一枚の紙切れを手渡す。
 瞳は不審な面持ちのまま、受け取った紙切れを開いてみた。
 (会見会場に報道陣が詰め掛けてパニック状態になっている。会見は中止して、皆ばらばらに抜け出すことになった。その人の指示に従うこと。 柳本)
 柳本は監督だった。事情はすぐに察することが出来た。会見は監督の柳本と、主将の板橋さんが主に受け答えをする筈だが、栗原に質問が集中するのは目に見えていた。今回の出来では、相当辛辣な質問攻めに遇うのは間違いないと思われた。

 「表情を変えないで、黙って素知らぬ顔でついてきてください。他の選手なども全て無視して。」
 瞳はサングラスで見えない男の眼差しを確認するようにみてから、そっと頷いた。

 男は黙ってひとのあまり居ない廊下を進んでいく。瞳は手荷物のカートを挽いて、後に付き従う。廊下は突き当たりで二又に分かれている。男が左へ向かったのに、(あっ)と驚いて声を立てそうになる。
 右は入国審査のゲートだが、左は乗り換え便のゲートだったからだ。

 男が瞳を導いたのは、出発直前の中華航空だった。小牧空港経由、台北行きとあるのをちらっと見て確認した。
 搭乗手続きは既に始まっていた。その列に加わる前に男は女性用のサングラスを瞳に手渡し、掛けるように促した。栗原瞳は既に有名人である。バレーボールファンでなくとも、顔を知っている人は多かった。
 「携帯電話の電源は今のうちに切っておいてください。」
 男に言われて、瞳はバッグから自分の携帯を出し、電源を確認する。バンコックから成田に着いた時、電源を入れていたのを再度オフにする。
 その時、男がしっかりと瞳が携帯をバッグにしまう場所を見届けていたのに瞳は気づかなかった。電源を切っていては使えないので、ハンドバッグから出して、カートに載せた小型の旅行バッグの外側のポケットにしまったのだった。

 搭乗してから離陸するまでにたいした時間は掛からなかった。瞳はいろいろ男に聞きたいとも思ったが、周りの乗客に状況を知られるのもまずいと思って、黙っていることにした。
 (監督も、主将も、他のみんなも夫々にばらばらに別の飛行機に乗るのかしら・・・。まあ、いい。この人の言うとおりに従えって書いてあったんだから。きっと名古屋から新幹線か何かで東京で合流するのだろう。)
 瞳は気楽に考え、暫く眠ることにしたのだった。

 小牧空港で男と一緒に再入国手続きをしてゲートを通過した。バゲージは別に届けることになっているからいいと言われていた。瞳は自分を案内してくれる男までが再入国手続きをするのを不思議に思った。が、よくよく考えてみれば、到着ゲートの中に外からの人間が入って待っていられる筈がない。男は一緒にバンコックから来たのだろうと瞳は簡単に考えてしまっていた。

 空港の建物から外に出ると、周りに人影が少なくなったので、安心して男に質問することが出来るようになった。
 「ここから、どういう風に行くの。皆んなとは何処で合流するのですか。」
 男は歩きながら瞳のほうを振り返った。
 「ここからは車になります。新幹線はひと目に付き過ぎるのでね。いや、高速を使えば、そんなに時間は掛かりませんから。」
 男はどこへ行くのかは微妙にはぐらかした。男がどんどん歩いていってしまうので、瞳は次の質問をする機会を失ってしまった。
 男が案内した駐車場には大型のリムジンが停まっていた。外国製の長い車体の後部座席のドアが開けられ、瞳は中へ促された。大型リムジンは、海外の遠征先などでは乗ったことはあったが、日本での送迎に使われるのは初めてだった。日本国内では大抵は団体でバスでの移動が普通だった。(今は、緊急事態なのだろう。そんなに騒ぎが大きくなっているなんて・・・。)ある意味、瞳は呑気にそんな風に考えていた。

 瞳が後部シートの奥に乗り込むと、男はドアを閉めようとして突然動きを止めた。男がそっと後部席に乗り込んでくる。
 「あ、動かないで。じっとして。髪の毛に蜂が止まっている。そのまま、動かないで・・・。」
 男はゆっくり、瞳のほうに顔を近づけていた。視線が瞳のうなじの辺りに注がれている。瞳は凍りついたように動けなくなった。
 男の右手がゆっくり瞳の後頭部のほうへ伸びてきた。
 (いや、早く捕まえて。)
 突然、ぐっと男の拳が瞳の頭を抱きかかえるような形で首筋に押し付けられた。
 「ほらっ。」
 男は掌を開いて、潰れた蜂の死骸を瞳に見せた。
 「あー、吃驚した。ありがとう・・・。」
 瞳は、男が最初から蜂の死骸を手の中に持っていたなどとは思いもしなかった。ましてや、駐車場の隅に三脚を立てた望遠レンズから、男が瞳に顔を近づけるシーンを盗み撮りされているなどとも、そして、それが何に使われる写真なのかも、知る由もないのだった。


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