茅野駅前

アカシア夫人



 第九部 捨て身の捜索




 第八十九章

 その前日である日曜の朝、配達の仕入れに街に出た俊介は、駅構内の駐車場に赤いレンジローバーが駐車してあるのを目にしていた。それが貴子の夫が使っている車であるのは俊介もよく知っていた。(まだ、帰ってきてないんだ)そう心の中で呟いた俊介だった。
 日曜の朝なのに、蓼科へ帰ってきていないということは、まだ暫くは帰ってくるつもりがないことは明らかだった。
 だからこそ、岸谷邸の傍を通りかかった際に、自称バードウォッチャーがいつものジープで出て行くのを見かけた時、チャンスが到来したと思ったのだった。(首尾よく行けば、今夜にもあの奥さんを抱くことが出来る)そう思ってしまったのも無理からぬことだった。
 俊介はすずらん平を少し街のほうへ戻って、空き地のある場所へ配達用のワゴン車を乗り入れた。そこからは歩いて岸谷邸へ向かうつもりだった。

 「ねえ、あの家には入ったことがあるんでしょ?」
 「ああ、配達でキッチンにまで野菜とかを運んだことがありますからね。玄関から入って真っ直ぐ廊下を進んでいったところがキッチンでした。廊下に入ってすぐのところに、扉があって、ドアが少しだけ開きかけていたんで、ちらっとみたら、あの人がそこは仕事場だから入らないでくれってすぐに言ったんです。何か見られたくないものがあるって感じでしたね。」
 貴子もあの時のことを思い出していた。
 「その部屋の奥にも、鍵の掛かった部屋がある筈よ。そこも必ず調べてね。何もなかったら、地下室を捜してみて。きっと鍵が掛かっていると思うけど、この中のどれかがそうだと思うの。」
 俊介はどうしてそんな事まで貴子が知っているのか不思議で、訊いてみたかったが、答えてはくれないだろうと、その言葉を呑み込んだ。
 「ねえ、お願いだから勝手には行動しないでね。危険かもしれないので。」
 「判ってますよ。」
 俊介は貴子にウィンクしてみせた。

 俊介は貴子と勝手には行動しないと約束したことは忘れてはいなかったが、今を逃すとまたとないチャンスを逃してしまうことになると思ったのだった。商売柄、他人の家に入り込むのは慣れている。色んな家を訪問し慣れてくると、大体、何処に何があるかは自然と分かってくるものだ、そう思って俊介は高を括っていたのだ。

 玄関前には古いオートバイが停めてあった。無用心にもキーは挿したままで置いてある。何かの作業をしていたのか、ハンドルバーには古い薄汚れたウェスが掛かっていて、玄関の隅には工具箱も出しっ放しでおいてある。俊介は玄関正面のオートバイの後ろへ廻りこむようにして玄関扉の前に立つ。
 玄関の鍵は大きさからすぐに判別が付いた。ギィーッと軋んだ音を立てて、その扉は開いた。斜めに身体を滑り込ませるようにして中に入る。まだ昼間なので、灯りは不要だった。玄関ホールの端まで行くと、奥へ続く廊下がある。その先にキッチンがある筈だった。以前にちらっと見ただけで、入らないようにと注意された仕事場への入口らしいドアがあった。鍵は掛かっていないようだ。ゆっくり真鍮製のドアノブを回すと、簡単にその扉は押し開くことが出来た。
 大きな作業テーブルがあって、上に乱雑にカッターやら定規の類、写真関係の雑誌などが散らばっている。写真も何枚かあったが、いずれも森の鳥を撮ったものだった。
 俊介が部屋全体を見渡すと、小さな小部屋への扉が見つかった。

 (棚に、フランス人形が置いてあって、その下に小さな鍵が隠してあるって言ってたっけ。ああ、あの人形だな。)
 音を立てないように、忍び足で近寄ると、人形を持ち上げる。人形のスカートの裾の下から小さな鍵が出てきた。それを摘みあげると、小部屋の扉へ急ぐ。鍵はぴったり合っていた。そおっと鍵を回すと、カチリと音がして錠が外れるのが判った。ゆっくりとドアを押し開ける。
 5畳ほどの小さな部屋だった。納戸のような感じの部屋だが、物置としては使ってないようで、がらんとして何も置いてない。真正面はただの白い壁で、いかにも何かポスターのようなものでも貼っていそうだが、何も貼られていない。しかし、よくみると、画鋲の痕のようなものが幾つか認められた。大きな窓はなく、明かり取りの横に細長い窓が天井近くに取られていて、そこから入る光で部屋は充分に明るい。出来上がった作品を貼ってみて出来栄えを観るようなことをしていたのかもしれないと、俊介は勝手に推理する。
 (地下室も調べろって言ってたっけ・・・。)
 俊介は以前、配達に来た際に、キッチンに入る手前に下のほうへ降りてゆく階段があったのを思い出した。慎重に小部屋の鍵を閉め直し、フランス人形の下へ鍵を潜り込ませてから、俊介は再び廊下に出る。忍び足でキッチンのほうへ向かうとすぐに下へ降りてゆく狭い階段の前に出た。

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 胸のポケットからペンライトを取り出して点けると、一歩ずつ薄暗い階段を下に降りてゆく。突き当たりには鍵穴のあるドアノブが付いた頑丈そうな木の扉があった。俊介は改めて鍵束にライトを当てて、それらしい鍵を探してみる。古そうな真鍮製の中くらいのが合いそうだった。
 鍵はぴったりだった。開錠してドアを押し開くと、その奥にも廊下が続いている。一番手前の部屋が暗室らしかった。ドアが薄く開いていて、その向こう側に分厚い黒のカーテンが掛かっていたからだ。そのカーテンを横に押しのけて首を突っ込む。手前に作業用のテーブルがあって、細かい抽斗のいっぱい付いた整理棚が載せてある。そのうちの一つを引っ張って開けてみる。中は写真が乱雑に押し込まれている。かなりの量がありそうなのが判る。手当たり次第、引き出してみる。
 「こ、これは・・・。」
 それは疑いようもない、全裸で自慰に耽っている木島夫人の姿だった。
 (こんなものがここにあると、奥さんは知っていたのだろうか。だから、自分をここに忍び込ませたのか・・・。)
 その時、微かに車がブレーキを掛けて停まる音が聞こえたような気がした。
 (まさか、こんなに早く?)
 そう思いながらも、無くなったことがばれないように一枚だけ写真を掴むと胸のポケットに押し込んで俊介は階段を駆け上がる。一階の廊下へ出た時に、もう既に玄関の扉が開けられようとしているのが判った。咄嗟に俊介は身を隠す場所を探す。キッチンのほうへ向かうか、地下室のほうへ戻るか一瞬迷って、キッチンのほうを選んだ。地下室は袋工事になっているだろうし、キッチンなら勝手口があるだろうと思ったのだ。摺り足で、キッチンのほうへ急ぐ。
 「誰か居るのかあ・・・。」
 男が玄関で大声で叫んでいた。俊介はキッチンテーブルの陰に身を潜めながら、玄関の鍵を開けたままで来てしまっていたことを思い出していた。鍵が掛かっていないのを不審に思われたのだと悟った。素早くキッチンを見回すと、一番奥に勝手口らしい扉があるのを見つけた。しかし、普段は使う必要がないのだろう。その手前には絶望的なほど、物が乱雑に置かれていて、音を立てないでそこを開くのは殆ど不可能に思われた。
 ギィーっと音がした。
 (作業部屋へ入ったのだ。今しかない。)
 俊介は心の中で決意した。キッチンを飛び出ると、廊下から一目散に玄関を目指した。足音がするのも、最早お構いなしだった。
 「誰だっ。おい、ちょっと待てえ。」
 後ろで叫ぶ声が聞こえたが、無視して夢中で玄関扉を滑り出る。目の前にオートバイが見える。躊躇無く跨るとエンジンを掛ける。
 (掛かってくれ)
 祈る気持ちが通じたのか、一発でセルが掛かった。バイクは俊介も嵌っていた時期があったので、得意中の得意だった。玄関から先は、坂になった小道だが、ダートトライアルもしたことのある俊介には躊躇は無用だった。
 「おい、こらっ。待て。」
 再び声が後ろから響いてきた。俊介はバイクをバウンドさせながら坂を滑り降りて、下の公道に出た。自分の姿を見られたかどうか、判断が付かなかったが、後は白を切るしかないと思った。山側へハンドルを切ると、エンジンを全開に吹かす。一気に坂を駆け上がっていく。
 走りながら、後ろでジープもエンジンが掛けられたのが判った。
 (振り切れるだろうか・・・。)
 山道には自信がある。この先の地理にも疎くはない。スピードさえ落さなければ四輪車を引き離すことは不可能ではない、そう俊介は思ったのだった。

 (目の前に峠のカーブが近づいてくる。ここは一瞬スピードを落さなければ廻りきれない。)そう思って、ブレーキグリップに力を籠めた。しかし、それはプチンという非情な音を立てて、反力を失った。
 (ま、まさか・・・。)
 俊介は自分の身体がオートバイごと宙に舞ったのを感じた。俊介の目には辺りの風景が時間が止まっているかのように見えたのだった。

madam

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