秘書電話1

アカシア夫人



 第九部 捨て身の捜索




 第九十章

 「ええ、そうです。中古のオートバイです。まさか、こんな山ん中だから盗む奴も居ないと思って。・・・・。そう、鍵は付けっ放しでした。まだ譲り受けたばっかで、調整が必要だったんで、修理してたんです。足りない部品があって・・・。そう、街のほうです。それで、戻ってみたら、バイクが無いんです。・・・。ええ、明日、盗難届けを出しに伺います。・・・。いや、心当たりは全くないです。・・・・。じゃ、お願いします。」
 岸谷は、電話の受話器を置くと、もう片方の手に持っていた物をテーブルに投げる。新品のブレーキワイヤケーブルである。
 その日の午前中は、ずっとオートバイの調整をしていたのだ。エンジンのほうはまあまあ調子は良かったのだが、ブレーキの効きが悪かった。調べてみると、ブレーキワイヤが伸び切って、切れかかっていたのだ。それで交換が必要と街に買出しに行ってきた矢先だった。
 警察にはオートバイを追っていったことは話さなかった。峠の急カーブのところまで追ったが、そこで姿が見えなくなったのだ。
 (あれは、不可抗力だ。向こうが勝手に修理途中のバイクを盗んで走り去ったのだ。誰かがそのうち、崖下へ堕ちたバイクと人間を見つけるだろう。しかし、自分からわざわざ届けることはない。警察へ話して、家の中まで捜索されては叶わない。生きているか死んでしまったか、こっちは知ったこっちゃない。)
 男は警察に電話した後、そう思ったのだ。逃げてゆく男の姿は背中しか見ていない。何処かで見たような感じではあったが、その時はすぐには思い当たらなかったのだった。

 「えっ、俊介さんですか。今日は見えていませんけど・・・。」
 掛かってきた電話は三河屋の親爺からだった。その親爺には配達物の注文で何度か電話で話したことはあったので、声はすぐに判った。しかし、最近は、俊介が配達に来た際に次の注文を頼んでおくので、俊介だけで事が済んでしまい、店に電話をすることは滅多に無くなっていた。
 「そうですか。ウチだけじゃなくて、色々掛けているんですね。・・・。そう、こんな遅くじゃ心配ですね。・・・。ええ、何か判ったらすぐに電話しますから。・・・。はい、どうも、ご免ください。」
 貴子は受話器を置く。途端に言い知れぬ不安が襲ってくる。
 (何かあったのだ・・・。)
 自分が密かに頼んだことと何か関係があるのかもしれないという思いを捨てきれない。しかし、約束したのは明日の午後だった。いつもバードウォッチングと称して森の中を彷徨って、帰りがけに山小屋喫茶カウベルへ寄る。それがいつものパターンだった。だから森へ出る午後一番に狙いをつけたのだった。
 貴子は、明日の朝、もう一度三河屋へ電話してみてから、その先を考えることにした。

 貴子の心配は杞憂に終らなかった。次の朝、早々に三河屋へ電話してみて、俊介が前の晩、戻らなかったことを知らされた。無断外泊など初めてのことだという。しかも、俊介が乗っていた筈の配送用の軽ワゴン車が、すずらん平の入口の空き地に駐められているのが発見されたという。
 すずらん平入口と聞いて、貴子にはピンと来た。その空き地は嘗て貴子が暴漢に襲われた際に、俊介に連れていって貰った空き地だなとすぐに気づいた。そこから、岸谷の家は近くも、遠くもない。ほどよい距離にあるとは言えた。
 三河屋の親爺は、もう一日だけ待って、音沙汰がなければ警察へ捜索願を出すのだと言っていた。貴子は居ても経ってもいられなかった。
 貴子は真行寺屋敷跡でみた、壁に取り付けられた四つの鉄輪を思い返していた。そして、同じ様なもので拘束されている俊介の姿を重ねていた。
 (もしや、侵入しているところを見つかって、捕らえられてしまったのでは・・・。)
 一旦そう思い出すと、その考えが頭から離れなくなってしまった。
 (私が頼んだばっかりに・・・。秘密を知ってしまったが為に殺されてしまうのだろうか。そんな事があり得るだろうか。)
 貴子は、自分の裸の写真を見つけた直後にカウベルで出逢った岸谷の顔を思い出していた。
 (秘密を持っていることなど全く気にしている様子も無く、堂々とした顔で私と出逢っていた。そんな冷徹なことが出来るのなら、自分が困る秘密を知られてしまった人間を始末することなど、何とも思わないのではないだろうか・・・。)
 貴子は密かに決意していた。俊介を救いに行かねばならないと・・・。

 決行するのは、元々俊介と示し合わせていたその日の昼下がりとすることにした。もう一刻の猶予もならないと感じていたのだ。夫の書斎から、岸谷を待ち伏せしていた夜に使っていた双眼鏡を持ち出してきた。あまり近くで見張っているのは危険だと思われたのだ。少し離れたところから岸谷が家から出て、森へ向かうのを見つけなければならない。その為には、双眼鏡が必要だった。念の為にスタンガンも借りていくことにした。
 なるべく身軽になって、いざという時には走って逃げれるようにと、いつもの電動自転車を乗り回す時のデニム地のショートパンツにして、テニスシューズを履くことにした。
 お昼前に山荘を出た貴子は電動自転車に跨って、すずらん平の入口へ向かう。俊介が駐めた空き地を使うことも考えたが、軽ワゴン車と違って電動自転車なら草叢にも隠しやすいので、もう少し岸谷の家の近くに駐めることも出来ると思ったのだ。
 岸谷は家を出て、一旦、すずらん平の入口のほうへ下って、そこからしからば平のほうへ向かうだろうと考えて、岸谷の家のすこし山側で待つことにした。岸谷邸の前を通り過ぎる際に、家へ上がってゆく小道の脇に岸谷が何時も使っているジープが駐めてあるのを貴子は横目で確認して、岸谷はまだ家に居ると見当をつける。家の前を通り過ぎて少し進んでから道から逸れて電動自転車を草叢の中に隠すと、自分も藪の陰に蹲って岸谷が現れるのを待った。
 貴子が思った通り、お昼ちょっと過ぎに岸谷が小道から降りてきた。和樹の双眼鏡が役に立った。岸谷はいつも通り大きな望遠レンズの付いたカメラを肩から提げ、ジープに乗り込んでいく。カウベルだけに行くのならオートバイを使うのだろうが、森を徘徊するのに大きなカメラを持ってゆくのは車のほうがやはり便利なのだろうと貴子は考えた。貴子はオートバイが俊介と共に、崖の下へ転落していったことをまだ知らないのだ。

 岸谷の車のエンジン音が充分小さくなるのを見計らって、貴子は立ち上がる。手には俊介に渡したのと同じ合鍵の束を手に握り締めている。合鍵屋で鍵を予備にもう一セット作っておいたのは正解だった。その頃から、俊介と二人で行動することになるのかもしれないと、無意識のうちにも思っていたのかもしれなかった。

madam

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