忍び込み

アカシア夫人



 第九部 捨て身の捜索




 第九十一章

 岸谷の家の玄関前に立った貴子は、思わず身震いしてしまうのを抑え切れなかった。ここへ来るのは二度目だ。だからと言って、他人の家に不法侵入するのに慣れよう筈がなかった。試しにドアノブをそっと廻してみる。今回はしっかり鍵が掛かっていた。貴子は鍵束の鍵を検める。一番大きいのが玄関の鍵のようだった。鍵を差し込む前に、呼び鈴のボタンを探して押してみる。耳を凝らすが返事は無い。貴子は以前に侵入した際に、岸谷邸には本人以外は棲んでいなそうなことを確認していたが、念の為に確かめてみたのだ。
 鍵を差し込みゆっくりと回す。手が震えてしまうが、ドアは問題なく開錠された。
 見覚えのある玄関ホールだ。しいんと静まり返っている。
 「誰か、居ますかあ~。」
 貴子は、少し低めの声で様子を窺う。
 「誰か、居ませんかあ~。」
 更に少し大きな声を挙げてみる。しかし、静まり返っていて、何の応答もなかった。次に廊下に出て、最初の扉である作業場への入口を入ってみる。以前、来た時と殆ど様子は変わっていなかった。相変わらず雑然としている。部屋の奥にある、小さな扉を見る。そして、その部屋への鍵がある筈のフランス人形が載っている棚をみる。これらも以前と全く変わりはない。
 音を立てないようにゆっくり進んで、フランス人形の下から鍵を取り出し、小部屋の入口へ向かう。
 鍵で開錠し、扉をゆっくり静かに開けてみる。真正面にあった筈の貴子の全裸のポスターは、剥がされたのか、もうそこにはなかった。その部屋の内部をじっくり見るのは初めてのことだ。以前に来た時は、自分の全裸のポスターにあまりに驚いて、じっくり見るよ余裕はなかったのだった。がらんとして何もない部屋だ。
 貴子は、地下室への入口を捜すことにした。地下室があることは、カウベルのマスターから聞いたのだった。俊介を捕らえて監禁しているとすれば、一番有り得そうな場所だと思われた。物音一つしないのは、猿轡を咬まされているのかもしれないと思った。
 廊下を摺り足で進む。突き当たりにキッチンへの入口らしきものがあって、その横に地下へと降りていく階段があった。
 (ここだわ。)
 貴子は思わず、唾を呑み込む。一度、深呼吸をして息を整えてから、階段を一歩ずつ音を立てないように降りてゆく。途中まで降りてきて、暗くなってきたので、和樹の書斎から持ち出してきたペンライト型の懐中電灯を点ける。その細いビームが差す先に扉と鍵穴のついたドアノブが照らされて見えた。
 地下室への入口扉は施錠されていた。鍵束の中からそれらしきものを探して挿し込んで回すと、難なく開錠される。
 ドアを薄く開けてみて、中の様子を窺う。
 「誰か居ますかあ~。」
 微かな声で、囁くように言ってみる。返事は期待していなかった。
 地下室の廊下へ踏み込んでみると、最初のドアは開いていて、内側にカーテンが掛かっているのが判る。写真を処理する暗室なのだとすぐに気づく。そのまま、奥へ進むと、更に扉が見つかる。ドアはやはり施錠されていた。鍵束から幾つか試してみて、二つ目の鍵で錠はくるりと廻り開錠された。
 扉を薄めに開いて、ペンライトを当ててみる。少し広めの細長い矩形の部屋だった。壁に幾つも額が掛かっている。それだけではなく壁沿いに細めのテーブルが並べられていて、何やらその上にガラスのケースが並べられている。博物館の陳列室といった雰囲気だった。
 貴子はその部屋へ踏み込んでみた。明りを点けるのは躊躇われたので、ペンライトの灯りだけが頼りだ。入ってすぐの場所にあった額へペンライトの灯りを当ててみて、貴子は心臓が止まりそうになる。

ladyup

 それは貴子自身のポートレイトだった。いや、ポートレイトというのは正確ではないかもしれない。頼んで撮って貰ったという類のものではなく、被写体が知らぬ間に遠くから望遠で撮られた明らかに盗撮写真を拡大したものなのだった。背景から、アカシア平の貴子達の山荘と山小屋喫茶カウベルの中間地点あたりの林道の途中のようだった。写真の下を見ると、小さなラベルがあって「アカシア夫人」と書かれていた。
 貴子は自分が想像したものが、現実にそこにあって、衝撃を受けた。
 (やはり、自分は何時の間にか、アカシア夫人にされていたのだ・・・。)
 次の写真は、顔のアップだった。優しい表情で微笑んでいる。しかし、その視線は明らかにカメラのファインダーに気づいていない。これも間違いなく盗撮されたものらしかった。幾つか貴子が森の中の林道を歩いている時のものらしい写真が続いた後、貴子は一枚の写真の前で足を停めた。
 最初、ただの森の風景を撮った写真のように見えた。しかし、よく見ると、草叢の陰に何か白いものが映っている。誰かが蹲っているようにも見えた。何なのか判らないまま、次の写真に光を当ててみて、貴子は凍りついた。
 明らかに前の写真の白くみえた誰かが蹲っているような部分をアップにした写真だ。しかも、そこに写っていたのは、貴子自身で、草叢にしゃがみこんで下着を膝までおろし、用を足している姿だったのだ。
 (やっぱり、あの時、撮られていたんだ・・・。)
 貴子は、カウベルへ一人で出掛けてゆくようになって二度目くらいの頃、帰り道に尿意を我慢出来なくなって、森の中で用を足してしまったことを思い出していた。あの時、確かに遠くでバードウォッチャーの姿を見つけたのだった。
 ふと、貴子はその写真の真下にガラスケースが置かれていることに気づく。ライトを当ててみると、ケースの中に何やらビニル袋に封じ込められたものが置いてあるのが判る。光が反射して見えにくかったので、ライトを少し下にして当ててみる。漸くそれは白い薄手の紙のようなものを丸めたものが袋の中に封じ込められているのだと判った。
 (ティッシュみたい・・・。)
 心の中で言ってみてから、はっとなった。
 目の前に、森の中で小用を足している女性。その前に置かれた丸めたティッシュ。
 (ま、まさか・・・。)
 それが本物でないにしても、見る者には何かを想像させずにはおかない。それは贋物であってもいい。しかし、本物であることを妨げるものは何も無いのだ。実際、それはあそこにあった筈で、ただ、藪の奥のほうへこっそり放り投げただけだった。こんな格好をこっそり盗撮する者が居たとしたら、それまでを回収しないとは限らないのだ。
 貴子は隣に光を当てるのが、少し怖くなった。しかし、見ないでは居られない。おそるおそるペンライトのビームを隣に移す。すぐ隣のガラスケースにあったものは、貴子が想像したくないと思った正しくそのものだった。
 同じ様にビニル袋にぴっちり封をして封じ込められているそのものは、ナプキンであることを見間違いようもなかった。しかもそれは明らかに使用済みのものを広げて入れてあるのだ。その銘柄にも見覚えがあった。見たくはなかったが、その広げられたものの汚れた部分を確かめてみる。微かに変色し始めてはいるが、嘗ては鮮血色だったに違いない血糊の痕がくっきり付いているのが見てとれる。
 貴子が、ペンライトの先を目の前の額にあげてみる。そこには、貴子自身がゴミの袋をゴミ収集場へ出す姿が遠くから捉えられていた。その物が何処から回収されたのかを証明するような写真なのだった。
 (な、なんてこと・・・。)
 自分はストーカーに追い回されていた。そして、そのストーカーによって蒐集されたものを見世物のように晒し者にされているのだった。
 (もう、止めてっ・・・。)
 堪らず、貴子は目の前には居ない卑劣なストーカーに向かって心の叫びを挙げた。
 その時、カチンと音がして、周りが眩しいほどに明るくなった。誰かが部屋の明かりを点けたのだと思って、振り向いた先には、ドア口に立つ岸谷の姿があった。

 いつものバードォッチングへ出る前に、まず別荘地街の入り口の近くにある村で唯一つの駐在所へオートバイの盗難届けを出しておこうと思ったのだった。車で行くので大した時間は掛からない筈だった。電話で概要は伝えてあるし、説明も不要だろうと思ったのだ。
 駐在のお巡りさんはしかし電話中だった。
 「ああ、そうですか。戻って来なくなってまだ24時間は経っとらんちゅう訳ですな。ああ、もうじき24時間ですかあ。・・・。ふん、ふん、・・・。はあ、そしたら、一応ですな、今晩まで待ってみて、それでも帰らなんだったら、届けさ出したらどうですかあ。いやあ、三河屋さんとこの、俊介君やったら、よおく知っとりますけね。・・・。ま、ご心配でしょうが・・・・。はあ、そうは言っても。」
 岸谷は駐在さんの電話がなかなか終りそうもないので、目配せで盗難届けだけを机に置いて立ち去ろうかと思いかけていたところだった。その手が、三河屋の俊介というのを聞いて、はたと止まった。
 (三河屋?俊介・・・。)
 それで、思い出したのだ。自分のバイクに跨って、逃げていこうとしていた男の背中。何処かでみたような気がしていたのだったが、俊介だったに違いないと思われてきたのだった。
 岸谷は今にも出そうとしてた盗難届けの紙をさり気なく引っ込めて背後に隠す。受話器を耳に当てたまま、ちらっとだけ顔を上げた駐在に、(また、来ます)とばかりに手で合図を送って、そのまま駐在所を後にしたのだった。
 (只の物盗りのピッキングだと思っていたが、どうも違うようだ。)
 瞬時に頭が回転する。知り合いというほどではないが、店の配達も使ったことがある、お互い見ず知らずの他人というのとも違う。何処の誰かは知っている。そんな男が忍び込んでくるとしたらそれなりの理由がある筈だ。その理由は今はひとつしかない。
 岸谷は、急いで家へ戻る必要があると考えたのだった。

 妙な予感がして、家の手前で車を止めた。音を立てたくなかったのだ。少し歩いて自分の家へ向かう。玄関のドアノブをそっと回してみて、施錠した筈のものが開いていることを知り、予感が的中したのを悟った。
 音を立てないように気をつけながら、そっと地下室への階段を摺り足で降りていった。扉は地下室の入り口も、その先の展示室に使っている場所も少しだけ開いていた。そしてその部屋の奥からはちらちら光が洩れてきていたのだった。

 「アカシア夫人の部屋へようこそ。陳列品はお気に召しましたでしょうかな。」
 惚けた口調で、岸谷は不敵な笑みを浮かべながら貴子にそう言ったのだった。
 「ア、アカシア夫人って・・・。」
 自分に向けて付けられた渾名は、随分不名誉なものに感じられた。侮蔑の悪意に満ちているように貴子には思われたのだった。
 「どうして、こんな事を・・・。」
 そう言いながら背後を振り向いた貴子は、明かりが点いていなかった時には気づかなかった部屋の真正面に、以前に作業室の奥の小部屋で見つけた貴子の全裸写真が更に大きく引き伸ばされて飾られているのを発見したのだった。
 「それは、おいおいお話して差し上げましょう。そんな事より、貴方のほうこそどうしてまた、こんな所に居るのです?」
 岸谷には、貴子がここまで嗅ぎつけてこれたことが不思議だった。
 「貴方、三河屋の俊ちゃんを監禁してるでしょう、此処に。」
 貴子は抱いていた疑惑を言い放った。
 「俊ちゃん?ここに?・・・。ははあ、つまりそう言うことか。貴方が彼をここに差し向けたって訳ですね。いや、彼はここには居ませんよ。私は男を監禁するような趣味は持ち合わせていませんからね。」
 「男はって・・・。」
 「まあ、貴方みたいな女性なら、分かりませんけどね。そういう事態になりかけていますし・・・。」
 貴子は、真行寺邸の奥の部屋に監禁されている自分の姿を夢で想像していたのを思い出した。
 「じゃ、俊ちゃんは、いったい何処に・・・。」
 「さあてね。ここから逃げていったことは確かだが。」
 「やっぱりここに一人で来たのね。彼が行方不明になっているのはもう知れているのよ。みんながここを探り当てるのは時間の問題だわ。」
 「ほう、それはどうですかね。彼がここへ来なくちゃならないって、みなさん、知ってますかね。」
 「うっ、そ、それは・・・。」
 「だから貴方もたった独りでここへ来たんじゃありませんか。他人には知られずにね。」
 岸谷の言う通りだった。岸谷と自分を結びつけるものについては、誰にも言ってない。俊介にさえも明かさなかったのだ。だから、自分の頼みで俊介がここへ忍び込んだことを誰かが知っている筈はないのだ。
 貴子は腰に付けたウェストポーチにゆっくり手を伸ばす。忍ばせてきたスタンガンを指の先で探り当てる。うまく使えるかどうか自信はなかった。
 (とにかく、何とかしてここから脱出しなければ・・・。)
 岸谷はドアの前に立ちはだかっていた。擦り抜けようとして、擦り抜けられる筈もなかった。
 貴子はウェストポーチの中に手を突っ込んでいた。中身を見せないようにしながら、スタンガンの胴体を握り締め、指先でスイッチの場所を探る。
 (いちかばちか、やってみるしかない・・・。)
 決心した貴子は、ポーチに突っ込んだ手を引き出しながら岸谷に向かって突進した。しかし岸谷はするりと身を交わした。代わりに足を掛けたのだ。貴子は足を取られて思いっきり前方へつんのめる。手を突いた弾みで手からスタンガンが転げ落ちてしまった。そのスタンガンを一瞬早く拾い上げたのは、岸谷のほうだった。
 「おやっ、危ないものを持ってますねえ。」
 岸谷のほうが遥かに落ち着いていた。床に這い蹲ってしまった貴子の上に馬乗りになると、首筋にスタンガンの先を当てる。
 「い、嫌っ・・・。」
 恐怖に貴子の顔が歪む。しかし、意識があったのはそこまでだった。
 バチバチバチッ。
 鋭い閃光とともに、スタンガンの衝撃が貴子を襲ったのだった。

madam

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