アカシア夫人
第六部 未亡人の謎
第六十九章
貴子は何時の間にかすずらん平の岸谷の家の前に来ていた。葦の原の向う側に建物の上半分が見え隠れしている。貴子が居る公道より高い位置にあるので、見上げるような方向にある。
貴子は岸谷の元を訪ねてみるべきか先ほどからずっと逡巡していた。夫には断りもなく男の家を訪ねることの遠慮もあった。三河屋の俊介がぽつりと洩らした、あまり近づかないほうがいいという警告めいた言葉が引っ掛かってもいた。
そんな思いもあるなかで、銀座のギャラリーでみたポートレートの不思議な表情が貴子に居てもたってもいられない気持ちを想起するのだった。その気持ちを解決するには、貴子自身が岸谷にぶつかってみる他は無いような気がしはじめていた。
気づいたら、乗ってきた電動自転車を公道の脇に転がして、岸谷の家へと続く細い私道を昇っていた。ぐるっと巡ってゆくと、目の前に岸谷の家の玄関扉が見えてきた。分厚い樫の木の板で出来た頑丈そうな扉で、窓はついていない。その分厚い玄関扉の上に小さな門灯が付いているだけで、後はコンクリート打ちっぱなしの無機質な壁があるのみなのだった。
(やはり、今日は止めておこう。)
そう思って、私道を戻りかけたところで、玄関扉の向う側で何やらガチャガチャいう音が聞こえた。貴子は咄嗟に壁の脇に身を隠してしまう。玄関前に立っていたことを気づかれたくなかったのだ。壁の向うに身を潜めていると、ギィーッという音と共に玄関扉が開かれたのが気配で感じられた。
バターンという大きな音がした後、サクッ、サクッと私道に敷き詰められているような枯葉を踏んでいく足音が聞こえる。貴子がそっと頭を出して覗いてみると、ポケットに手を突っ込んだまま、肩からいつもの望遠レンズのついた写真機を下げて歩き去ってゆく岸谷の後姿が見えた。
声を掛けるなら今かと思ったが、他人の家の前に潜んでいながら声を掛けるなど出来様筈もなかった。貴子にはそっと身を潜めたまま岸谷が立ち去るのを待つしかないのだった。
岸谷の足音がしなくなってから、少し置いて貴子も私道を降りて公道のほうへ出てみる。遥か彼方に少しずつ遠ざかってゆく岸谷の見慣れた山歩きの後姿が、今にも視界から消え去ろうとしていた。いつものバードウォッチングへ出掛けていくのだということは疑いようもなかった。
貴子には何か虫の報せのようなものが感じられた気がしたのだ。深く考えることもなく、何とは知れぬ予感に誘われて、貴子は岸谷の家の玄関まで舞い戻っていた。目の前の玄関ドアのノブを手にする。軽く引いただけだったが、ギィーッと音を立ててそれは貴子のほうへ開いてきたのだった。
(やはり、鍵を掛けてない。どうしよう・・・。)
岸谷がドアをバタンと閉めた時に鍵を掛ける音がしなかったのを貴子は聞き逃してはいなかった。それでもしやと思ったのだ。
ドアの向うの暗がりを覗き込んでみる。中はしいんと静まり返っていた。
「あのお・・・。誰か、いませんかあ。岸谷さあん・・・。居ませんか。」
今、出ていったのを見送ったばかりである。岸谷が居る筈はなかった。それでも誰かが留守番していないとは限らない。
暫く待って何の返事もないことを確かめてから、貴子は玄関の中に一歩踏み出した。玄関ホールの部分は二階部分まで天井の高い吹き抜けになっていた。壁はすべてコンクリート打ちっぱなしの素っ気無いものだ。洋式の生活をしているらしく、玄関に靴脱ぎはなかった。そのまま靴を脱がないでゆけることが、貴子に更に一歩踏み出させる勇気を与えた。
玄関扉真正面の壁の脇のほうに奥へ繋がるらしい廊下があった。そこまで踏み出すと、部屋へ続く扉がある。真鍮製のドアノブをそっと廻してみると、そこも鍵は掛っていない。
中は仕事場らしかった。幾つかあるテーブルの上に、乱雑に写真やら書籍やらが散らかって置いてある。写真を切り抜くカッターのような器具も幾つか据えられていた。
奥の壁にもう一つの扉があった。仕事場の入口の扉よりは一回り小さめだ。奥に別の部屋があるらしかった。
もう戻らねばと思いながらも、何かに吸い寄せられるように貴子はその扉に近づいた。
ドアノブに手を掛けてみる。
ガチャリと音がしただけで、扉は開かなかった。
(やはり、鍵が掛っている・・・。)
その時、貴子の目に、本棚に無造作に置かれた人形がとまった。岸谷には何か不釣合いな似つかわしくない物のように感じられた。古いフランス人形のようだった。
近寄って、人形を持ち上げてみる。
人形のスカートの裾の下から一本の鍵が出てきた。飾りッ気も何もない、古そうな真鍮製の鍵だった。奥の部屋のドアノブと同じ材質でデザインも似てる気がした。
そっとその鍵をつまみ上げると、奥の部屋へ続くらしい扉へ近づいていった。
鍵穴にそっと差し込む。
ガチャリと何かが外れる音がする。貴子がそっとノブを廻してみると、今度はするりと廻った。
扉を押し開いてみて、貴子は真正面にあるものを観て思わずはっとなった。
急いでドアを閉め、震える手で鍵を廻してフランス人形のある棚へ小走りに戻る。
(早く出なくちゃ・・・。)
あまりに慌てていた貴子は、自分が何か痕跡を残していないかも確かめないまま一目散に玄関扉に急いだのだった。
貴子は自分の書斎の扉をしっかり閉める。本当は鍵も掛けたい気分だったが、別荘を作る際に夫の和樹は、貴子が自分の書斎に鍵を付けることを許さなかった。正確にはよく分からないままに、鍵のついてないドアノブにされてしまっていたのだ。しかし和樹の書斎にはちゃんと内側から錠の下ろせる鍵がついている。勿論、外側から鍵を掛けることも出来る。もっとも掃除の都合などがあって、殆ど鍵が掛けられていることはないのだが。
貴子には何処をどう通って家まで辿り着いたのか、はっきり憶えていない。とにかく、早く一人になって落ち着いて考えたかったのだ。その為には、しっかりと独りっきりになれる場所でなければならなかった。夫がしょっちゅう来ることがある寝室も落ち着かない。自分一人で篭れる場所、それはこの書斎ぐらいしかなかったのだ。
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