アカシア夫人
第六部 未亡人の謎
第六十一章
「奥さん。いいんですか、そんな事、言ってて。」
「だって、そんな真似させようなんて、あまりに酷過ぎます。」
「出来ないって言うんならいいんですよ。私にも考えがあります。」
「待って・・・。そんな事、言わないで。困ります。」
「だったら、どうするんです?」
「そ、そんな・・・。わかりました。」
令夫人はがっくり首をうな垂れる。そして両手を合わせて男の前に差し出すのだった。
「奥さん。お茶、冷めちゃいますよ。」
マスターの優しい言葉に、はっと我に返った貴子だった。昨夜のビデオを思い返してしまっていたのだった。
「あら、嫌だわ。ちょっと物思いに耽ってしまっていて・・・。」
「誰だって、そういう時ってありますよ。」
相変わらず布で皿を拭く手を休めずに、マスターはにこやかに微笑みかけて言った。
(俊介も、昔あれを観たことがあると言っていた。自分がそんなビデオを観ていると想像したりしているのだろうか・・・。まさか、自分に置き換えて考えていたりしないだろうか・・・。)
そう考えただけで、顔から火を噴きそうなほど恥かしかった。心を落ち着けようと、マスターの淹れてくれたダージリンをひと口含む。甘い香りが心を和ませるお茶だった。
「そう言えば、バードウォッチャーさん。みえてないわね。」
「あの方は、来る時は毎日のように来るし、来ない時は一週間続けて来ないこともあるんですよ。」
「へえ。何してるのかしらね、そういう時って。」
「さあ、撮り溜めたものを編集したりするのに、篭ってやっているみたいですよ。随分立派なアトリエというか、スタジオですかね。持ってらっしゃるそうですから。」
「ちょっと変わったお宅よね。この辺の別荘地としては。」
「ご存知だったですか。写真をやるので、暗室とかも必要で、普通の山小屋風の家では駄目なんだそうで。あのお宅、地下室まであるんだそうです。それであんなコンクリート造りなんでしょう。」
「ああ、なるほどね。そう言えば、ついこの間、東京でばったりお逢いしたんですよ。ほんとの偶然に。」
「へえ・・・。東京でですか。」
「銀座をぶらぶらしようとしてたら、歩道でばったりと偶然にね。それで、近くの画廊で個展を出してるから観ていかないかって。」
「ご覧になった?」
「ええ、そう。少しだけね。私にはよく分からないわ。写真のよさが。」
「まあ、人それぞれですからね。ああいう趣味の世界は。」
ここで再び貴子はすずらん夫人の事に触れてみようか迷った。
「鳥だけじゃなくて、他にもいろいろ撮ってらっしゃるみたいね。女の方とか・・・。」
「まあ、鳥の写真だけじゃ、食べていけないでしょうからね。」
「マスターもご覧になったことがおありなの、あの方の作品?」
「大分、前にですが。アルバムとかを。ここに飾らないかって、鳥の写真を持って来られたこともありますよ。」
「飾ってあるんですか、あの人の写真を。」
「ずっと以前にです。でもあんまり人気がないので、暫くして絵に替えました。」
「鳥の写真じゃ・・・ね。鳥以外の写真は?」
「あ、そろそろお湯が沸くのでちょっと見て来ます。」
裏の厨房のほうへ戻ってゆくマスターの背中を見ながら、貴子はマスターがさり気なくだが、わざと話を中断したような気がしていたのだった。
「ねぇえ。あれからまた調教、進んだ?」
その夜も出勤前のひと時をラブホテルの一室で和樹と過ごしていた朱美は、頃合を見計らって切り出してみた。妻にこっそり逢ったことは話してはいない。
「調教か・・・。そうだね。ま、一歩ずつってとこかな。」
「今度の一歩は、なあに?」
「バルコニーへの放置プレイだよ。お前が勧めていただろ。」
「ふうん、そうなんだ。順調だね。で、どうだった?」
「そりゃあ、凄かった。白眼を剥いて気を喪うんじゃないかと思った。や、向うがだよ。」
「放置プレイで?」
「違うよ。その後だよ。おしっこを限界まで我慢させて、もう駄目ってところで後ろからやってやったんだよ。」
「それ、凄く効くでしょ。そうなのよ。」
「お前もやった事があんのか。」
「あら、嫌だ。私はしないわよ。我慢なんかしないで、すぐ出しちゃうもん。」
「だったらどうして知ってんだよ。」
「ふふふ・・・。これは秘密だけど、お店で素人さんがやられてるの見学させて貰ったことがあるの。そういう部屋があるの、ああいう店は。」
「ふうん、今度俺も見せて貰おうかな。そんな部屋・・・。」
「あら、高いわよ。会員制だから。目の玉が飛び出るほど。」
「そっかあ。そうだろうな。いいや。俺はお前に教えて貰うだけで。」
「いいじゃない、貴方は。よく従ってくれる奥さんがいるんだから。お家で出来るでしょ。」
朱美な謎の微笑みを浮かべて和樹を見つめるのだった。
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