アカシア夫人
第六部 未亡人の謎
第六十二章
「奥さあん、配達の荷物、持ってきましたぁ。」
玄関のほうで俊介の能天気な声がした。
「はあい。今、勝手口開けますから、裏に廻ってっ。」
貴子はキッチンからそう答えると、手を拭きながらエプロン姿で勝手口へ向かう。俊介の為に錠を開けてやってから、素早く勝手口を離れる。俊介からDVDを受け取ってから逢うのは初めてである。あんな過激な物を観てしまった後だけに、面と向かって顔を合わすのが恥かしかった。しかし、本当を言えば、もっと恥かしい事を清里で俊介としてしまっている。それでも今更とは思えないのだ。
「えーっと、ここに置きますけど・・・。」
勝手口から入ってきた俊介が荷物の段ボールをタタキに置く音がした。貴子は勝手口からは見えない、洗面所に続く廊下の陰にわざと隠れてそこから声を掛ける。
「今度持ってきて貰う物、そこのテーブルの上にあるメモに書いておいたから。」
「ああ、ありました。これっスね。毎度どうも。それじゃあ、これでぇ。」
俊介はいつもと全く変わりなく、くったくのない明るい声でそう言った。
「ま、待って。ちょっと・・・。」
そう声を掛けておいて、貴子はゆっくりと姿を現す。俊介はこの間の清里の事やDVDの事をそれほど気に掛けてはいない様子だったので、思いきって訊いてみることにしたのだ。
「ねえ、ちょっと訊いていい・・・。」
「えっ、何スか。」
「あのね。この界隈の別荘地に、未亡人で棲んでいる人っている?」
「未亡人?えーっと、暫く前までは居ましたね。」
「居ました?じゃ、今は居ないの。」
「突然、越していっちゃったんですよ。今は空き家ですよ、その家。」
「すずらん平の辺?」
「よく分かりますね。そうですよ。」
「へえ。何て人、その未亡人?」
「何だったっけな。難しい苗字だったっスね。えーっと、そう。真行寺だったかな。」
「真行寺?たしかに余り無い苗字だわね。その家にも配達してたの?」
「そりゃあ、仕事っスからね。でも、どうして・・・。」
「あ、いえ。昼間、暇な人で、何かお習い事みたいなサークルとか出来ないかなって思って。そしたら、未亡人の方もいらっしゃるからって教えてくれた人が居たから。」
「へえ、そうなんスか。」
貴子は咄嗟にまた嘘を吐いた。そうでも言わないと他人の詮索をしてると噂されないとも限らない。
(焦っては駄目。じっくり時間を掛けて聞き出していこう。)
貴子は探偵の真似事のような事をしているのが、何だか楽しくなってきていた。
「ふふふ。貴子さん、お元気?」
「その声は、朱美さん・・・ね。よくこの電話番号が判ったわね。」
「あら、貴方がこの間私に掛けてきたからじゃない。」
貴子は普段携帯を使っていないので、掛ってきた電話に番号が表示されることに慣れていない。貴子も携帯は持っている。しかし、この別荘地の山荘では圏外になってしまうので、わざわざ固定電話を引いて貰っているのだ。家に居る時は専ら固定電話で、携帯は茅野の市街や東京などに出た時にしか使わないのだった。
「今、旦那さんは?」
「今日は仕事で東京に出てる。」
朱美は本当はさきほど逢瀬の約束の電話をして和樹が山荘には居ないことは知っていた。しかし、そんな関係を悟られないようにわざと質問したのだった。
「旦那さんとはその後どう?大丈夫なの?」
「このところ、少し落ち着いているかな。居ない日も多いし、居ても、かならず何かするとは限らないし・・・。」
「そう、なんだ・・・。」
「・・・・。」
和樹とのことを少し話してしまったことを後悔し、貴子は言葉を継げなかった。
「ねえ、今度また東京で逢わないこと?」
「えっ、東京・・・。夫が許してくれるかな。」
「行かせて呉れたら、何でも言う事聞きますって言ってみたら。だって、旦那さん、いろいろしてみたいことがあるんでしょ?」
「ううん・・・。」
貴子はそれはちょっと怖かった。何をさせられるか判ったものではない。それよりも平日、和樹には内緒で東京へ出ることもちらっと脳裏を掠める。今は、電動自転車があるのだ。駅まで送って貰わなくても独りで出ることだって出来なくはない。
「平日だったら・・・、大丈夫かも。」
「あ、ご免なさいね。平日は私のほうが駄目なの。仕事がいっぱい入っちゃってて。」
「ああ、そうなんですか。」
「いいわよ。駄目元で訊いてみて。お許しが出たら逢うことにしましょうよ。」
朱美との電話を切った後、貴子は平日にこっそり東京で逢う約束をしなくて良かったと思い返していた。やはり万が一でも夫にばれてしまった時のことを考えるとリスクが高過ぎると思ったのだ。それこそ電動自転車も取り上げられてしまって、山荘からは独りで出れないように閉じ込められてしまうような気がしたのだ。
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