ending

アカシア夫人



 第十部 名探偵登場




 第百一章

 あれから和樹は蓼科の山荘へは一度もやってきていない。貴子がそれを許さないからだ。貴子は今回はきっぱりと和樹と一緒に棲むことを拒否した。貴子には他に棲むところが無い以上、山荘を出てゆかねばならないのは必然的に和樹のほうということになった。
 和樹が書斎の抽斗にしまっておいたネクタイピンは貴子自身が選んだものだと話すと、和樹にはぐうの音も出せなかったようだ。その後、すぐに和樹も朱美に確かめ、一緒に東京で出逢っていたと知って愕然としていたようだ。
 長野県警の老練な刑事、桶川とは監禁からの脱出後、何度か逢っていた。ビデオ画像の詳細な調査などから、隠しカメラの位置が特定され、それらの回収なども行われたからだ。証拠品とは言え、若い男性刑事等には刺激が強すぎることもあって、中身を見るのは今のところ自分だけにしているからと何度も断っていた。
 貴子も自分の痴態を他人に見られるのは決して気持ちのいいものではなかったが、岸谷を処罰して貰う為には仕方がないのだと覚悟は決めていた。
 「奥さんに魅力が無いということではないのだが、自分位の歳になってしまうと、ああいうものを観ても、性欲が高ぶるということは残念ながらもうないのです。」
 桶川刑事はそう説明していたが、その言葉は、本当かどうか確かめる手立てはないものの、貴子は信じることにしたのだった。
 貴子は更に桶川刑事が懇意にしている腕の立つ弁護士を紹介して貰って、財産の回収について、相談に乗って貰っていた。法律上は婚姻関係があった上での遺産相続になるので、夫婦が等しく権利を持つ筈であるが、離婚調停の中では貴子の同意を得ないまま、自分の名義に密かに書き換えていた事実が斟酌され、懲罰的な処置が適用されるだろうとの事だった。貴子自身も無一文のまま和樹を放り出すようなつもりは元々無かったが、和樹の不貞を許すつもりは一切なかった。いや、本当に許せなかったのは、朱美との不貞のことではなくて、自分を性の奴隷の様に扱ったことに対してだったが、離婚調停上はそういう事を理由に挙げるのは憚られたのだ。
 離婚が正式に決まった後になって貴子は東京の朱美から電話を貰ったのだった。

 「実は、私も和樹とは別れることにしたの。」
 「そうだったの・・・。」
 「元々、愛情があって結ばれた仲じゃないし、お互いの生活に触れることに刺激があっただけなの。和樹もそうだったみたい。」
 「ということは、もう刺激もなくなってしまったという事ね。」
 「わたしも貴子さんが居たから和樹に興味を持った訳だし、和樹も貴子さんとの間とは違う世界を垣間見たかっただけなんじゃないかしら。」
 「朱美さんに未練が無いんなら、いいのじゃなくて。私には遠慮することはないのよ。」
 「遠慮じゃないわよ。でも、私の事、怒ってない?」
 「全然。だって、朱美さんが居たから私も助けられたし、下手したら、三河屋の俊ちゃんだって命を落としてたかもしれないもの。」
 「あら、そう言って貰えると私も嬉しいわ。」
 「ねえ、東京行きの特急で一緒になった時、本当は最初から何もかも知ってたんでしょ。私が普通の下着も着けさせて貰えてないことも。」
 「ご免。それは謝るわ。どんな顔して我慢するのか、つい面白がっちゃってたわね。」
 「でも結果的には、あの時、宝飾店に朱美さんに連れられて行った事が、和樹との事をきちんと整理することに繋がったんだから。朱美さんも最初からそういうつもりもあったんじゃないの?」
 「結果論から言うとそう見えるかもしれないけど、正直、あの時はそこまで考えてなかったと思うわ。ただ、私だけが貴方のことが和樹の口から筒抜けで、貴方のほうに何の情報もないのはフェアじゃないと思ったんだと思う。貴方のほうにもヒントみたいなものがあるべきじゃないかって、きっと思ったのね。そう言えば、奇跡的に助かった俊介さんて、その後、元気にしてるかしら。」
 「うん、大丈夫。とっても元気よ。自分で歩けるまではまだちょっと掛るけど。」
 そう言うと、貴子は受話器を持ったまま、部屋の奥で新聞を広げている俊介のほうを向いて片目を瞑ってみせる。
 「ねえ、奥さん。さっきから誰と話ししてるんですか?随分長い電話ですよね。」
 「もう私、奥さんじゃないのよ。それに、貴子って呼んでって言ったのにっ。」
 「え、じゃあ、貴子・・・さん。」
 「あら、あたしにも聴こえてるわよ。じゃ、俊介くんに宜しくね。」
 電話は貴子が返事をする前に切れていた。
 「それじゃ、俊ちゃん。外に散歩に行きましょうか。」
 貴子は立ち上がると、俊介の乗った車椅子を押しに向かうのだった。

 完

madam

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