妄想小説
牝豚狩り
第九章 想定され得ぬ事態
その3
冴子にとっても、男にとっても、そのボストンバッグを置き忘れたということは想定外の出来事だった。男は、GPS追跡装置付きの携帯の電源を自分の屋敷の中で切ってしまったことに動転して、ボストンバッグを置き忘れたことに気づかなかったのだ。そのことに気づいたのは、もう車が半分都心に入り込んでいた時期だった。しかし、取りに戻ることは出来ない。とにかくまずは、GPS携帯を追尾が不可能と思わせる場所で切ることが先決問題だった。男は東京駅へまっすぐに向かっていた。GPS携帯の電源が東京駅で切られたということは、そこから電車を使ったということを想像させる。すなわちそこからどちらに向かったかは皆目検討がつかないという訳だ。
男に取っては、居るか居ないか確認できていない追尾者を撒くことが大事だった。そして出来れば、砧の屋敷について怪しまれないようにしたかった。最近は滅多にゆくことはなくなっていたが、いつ必要になるか判らない場所だ。出来れば、警察などに目をつけられないようにしなければならない。そのことは、美咲の服を入れたあのバッグを取りに戻ることは出来ないということを意味している。男はもう既に本物の制服を使うことは諦め、コスプレ用の贋の衣装を調達しなければならないだろうと思い始めていた。
冴子のほうでも、男が制服を置き忘れたということは想定にないことだった。あの制服の格好は、牝豚狩りの本番には欠かせないものの筈だ。持ち出せるようにボストンバッグに入れたらしいことはそれを物語っている。それを置き忘れたということは、よっぽど慌ててしまう何かが起こったということを意味しているように思えた。
(いったい、何があったのだろうか。)
冴子は庇から飛び降りると、今度は頭を巡らせた。その時に、冴子の頭にひとつのことが浮かんだ。
(GPS携帯だわ。あの電源をここで切ったのだった。ということは、この場所に何かあるということを指し示してしまうことに気づいたのだ。向こうは、こちらがもうこの場所を探り当てていることを知らない。だからこそ、再びGPS携帯の電源をすぐに入れ直して、移動を始めたのだ・・・。)
冴子は、再びGPSの電源を切られてはならないことに思い当たった。人質に差し出している美咲を見失って餌食として献上してしまうことになりかねないのだ。すぐに冴子は携帯で、GPSの行方を追っている二人を呼び出す。
「あ、瞳さん。良子さんに伝えて。緊急事態よ。もう見つかっても構わないから全速力で車を追い掛けて。とにかく車を止めて。GPSの電源を切られてしまったら最後よ。」
「判った。今、伝える。・・・・」
冴子の耳にも状況を良子に伝えている瞳の緊迫した声が携帯のマイクを通じて何となく聞こえてくる。(了解。)良子のきっぱりした声が叫ぶのが冴子の耳にも伝わった。
「今、どの辺。どこに向かっているみたい。」
「ええと、246の桜田門を過ぎているところ。皇居を廻っていったようね。・・・ええと、目指しているところは、・・・、ううんと、東京駅かしら。」
「えっ、拙いわ。追いつけそう。」
「今こっちも桜田門の角を曲がったところ。何とかなるかもしれない。」
冴子は祈るような気持ちで携帯を繋いだまま、暫く待った。
「あっ、東京駅のところで電源が切れた・・・。」
「えっ、今、何処。東京駅、見える。」
「今、二重橋の角。どんどん近づいている。」
良子のハンドル捌きは、交通課で鍛えたものだ。良子はけたたましいタイヤのスリップ音を軋らせながら、東京駅前のロータリーに車を滑り込ませた。駅前ロータリーは特に変わった雰囲気はない。いつものように、数十台の車が行き来し、数百人の人が駅構内を出入りしている。そのうちの誰が美咲が持っていた筈の携帯の電源を切ったのか、誰が美咲を拉致した車を運転しているのか、はたまた誰が美咲を駅構内に連れこんだのか、皆目見当もつかなかった。
「ごめんなさい。間に合わなかった。何処だか、わからない。」
車から走り出た良子は、冴子に繋がりっぱなしになっている携帯を手に、茫然と駅構内を走り回る数十台の車を見つめながら、受話器の先の相手に報告した。
「謝らないで。私の作戦の失敗よ。大きな誤算があったの。」
報告を受けた冴子のほうも、がっくり首をうなだれていた。
(まずいことになった。)
冴子は作戦の失敗のおかげで、牝豚狩り首謀者たちのイベントの餌食にされてしまう美咲の姿を頭に思い浮かべる。そしてすぐにそれを打ち払うかのように、かぶりを振った。
(ここで諦めてはならないのだわ。何か方法がある筈。それを考えなくては。)
冴子は、次の作戦を立てる為に世田谷砧の冴子の元へ良子たちに戻って来るよう指示をしてから、屋敷の外へ出る為に、慎重に監視カメラの目を潜るようにして外壁へ急いだ。
「佐藤指揮官。私は捜査本部を立ち上げてくれとまでは言っていません。一人の警察官が命の危険に晒されているかもしれないのです。手助けが欲しいだけです。」
冴子の上司、佐藤浩市はじっと冴子の目を見詰める。それから宙を睨んでゆっくり考えている風だった。
「私は、君を信じている。・・・、個人的にね。しかし、組織は個人の信条や、感情で動かす訳には行かないのだ。それは君も判っている筈だ。今のままでは何の物的証拠もない。」
「それは・・・、それは私も判っています。でも、・・・。このままでは手遅れになりかねません。」
「君の話が全て真実だとして、それでも、君はやり方を間違えたとしか今は言えない。組織を動かして行動するためには別のやり方が必要だ。・・・私は個人として、君に個人行動をすることを許した。それだって、私の立場上は、権限以上のことだと思っている。私に出来るのは、今はここまでだ。」
「わかりました。」
冴子は警視庁最上階にある上司の佐藤浩市の部屋を後にした。特別捜査チームの指揮をとっている佐藤は、冴子の最も信頼のおける上司だった。が、しかし、佐藤も組織の人間ではあった。
美咲が拉致されてしまってからどんどん時間が経ってゆく。しかし、今動けるのは冴子の他は協力して貰っている国仲良子と栗原瞳しかいない。栗原は運動能力は優れていても、所詮は素人だ。国仲だって、警察官ではあるが、特殊訓練を受けている訳ではない。危険なことは一人では任せられない。
今微かに残っている糸口は、黒田の屋敷に置き忘れられた美咲の制服だ。それを黒田が取りに戻るところをつかまえるしか手はない。しかし、黒田はいつ戻ってくるか判らないし、戻ってこないかもしれないのだ。
黒田邸に張り込むにしても、手が足りなかった。秘密のサイトの公開ビッドも待ち受けなければならない。相手がいつどういう手でやってくるか、構えていなければ、間に合わないのだ。
その時、冴子は、自分の手に、もう一枚カードが残っていたのを思い出したのだ。
(そうだ、あの医者がいる。)
今まで、泳がせておいた篠崎という医者だ。最早緊急事態となっては、使えるものは使い切るしかないと冴子は考えていた。
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