西校舎

新任教師 美沙子





 十三

 翌日、美沙子は重い腰を引き摺るようにして何とか出勤した。さすがに新任で異動してきたばかりなのに、何日も連続で休む訳にはゆかない。それに前日、元気ではないものの床に伏せっているほどでもないのを教務主事の殿井に見られてしまっているのだ。校長にも(あれなら明日からはちゃんと出勤して来れますよ)ぐらいの事は報告されてしまっているに違いなかった。
 職員室での教師間のミーティング時には何故か殿井は姿を見せていなかった。出張などで不在というのは校長、教頭、教務主事などにはよくあることなので不審には感じなかった。美沙子は前日の事があったので、殿井が居なくて却ってほっとしたような気持ちだった。

 教職員ミーティングが終わって、美沙子はその日最初の授業の為に西校舎のほうに向かう。美沙子が担当する音楽の授業が行われる音楽室はブラスバンドの部活の練習にも使われるので音の軽減の為に学校敷地の中では隅っこのほうに配置されている。人通りのない渡り廊下を抜けて西校舎に入ると一番奥の音楽室へ向かう長い廊下を誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 (殿井主事・・・。)
 西校舎は音楽室の他は、普段の授業では使わない一般教室でない部屋がずっと並んでいる。殿井はそのうちの一つ、理科実験室から出てきたようだった。次第に近づいて向こうも美沙子の事に気づいているのは明らかだった。挨拶しない訳にはゆかないが、何と言っていいのか美沙子は戸惑っていた。
 「あ、先生。ど、どうも・・・。」
 そう言って軽く頭を下げて、そのまま素通りしようとした美沙子の手をすれ違いざまに殿井の手が捉えた。それは恋人繋ぎと呼ばれる手の繋ぎ方を美沙子の側だけ裏返したような繋ぎ方で、殿井の指が美沙子の指の間に絡まって、振りほどけない。
 「あ、先生っ・・・。」
 そのまま殿井が掴んだ手に力を籠め、引き摺り寄せるとそのまま自分の股間に押し当てる。
 「あ、こ、困りますっ。こんなところで・・・。」
 しかし、殿井は美沙子の耳元に口を寄せると囁きかける。
 「昨日はとても気持ちが良かったよ。ここがね。」
 そう言って示しているらしい殿井の股間は、ズボンの裏側で硬くなり始めている。
 「フェラチオってのがあんなに気持ちいいものだとは思わなかったよ。君はどうだったんだね。」
 「え、困ります。こんな・・・。」
 美沙子は右手を殿井の左手に抑え込まれるようにされているので身動きが取れない。首だけ振って辺りに人影がないか慌てて確かめる。
 「君はどうだったんだ。フェラチオは気持ちよかったのかね?」
 「あ、あの・・・。」
 「嫌だった。気持ち悪かったって言うのか。」
 「え、いや、その・・・。」
 「気持ち良かったんだろっ。」
 「え、はい・・・。あの・・・。」
 美沙子は決して肯定する答えをするつもりではなかった。しかし、ここで殿井を怒らせたりするととんでもないことになりそうな予感がして、つい(はい)と答えてしまったのだった。殿井がにやりと相好を崩すのを美沙子は横目でちらっと見た。
 「音楽の授業がこれからあるのだろ。放課後になったら理科準備室に来なさい。待ってるから。」
 そう言うと、やっとのことで繋いだ手を離して美沙子を解放する。そのまま美沙子には背を向けて、渡り廊下に向かって悠々と歩いて行ってしまったのだった。

 その日の音楽授業は散々なものになってしまった。得意にしているピアノ伴奏を何度も弾き間違えて生徒たちからも「先生、どうかしたんですか」とまで訊かれてしまった。そしてあっと言う間に放課後がやってきてしまったのだった。

 殿井は聴いたところによると、ずっと理科主任をやっていたらしい。今は教務主事となって授業を担当することは殆ど無くなったようだが、理科実験室の隣にある理科準備室を自分の個室のように使っているらしかった。本来、理科主任を降りる際に、後任に部屋を明け渡すべきだったのだろうが、理科実験室には別に実験用具倉庫と呼ばれる部屋があって、実務には支障をきたさないのでそのままになってしまったらしかった。学校で個室を持っているのは、校長室のある校長の他は、この殿井だけらしかった。教頭でさえ、職員室の脇に自分のスペースを持ってはいるものの、個室ではない。体育主任には体育館に教務準備室が、美術教員には美術室の脇に美術準備室があるにはあるのだが、それらは個人のものではなく、大抵は共用で利用されている単なる準備室か倉庫でしかなかった。

 ただでさえ、普段からひと気の少ない西校舎である。教務主事がほぼ自分の個室のように使っている理科準備室へ放課後、美沙子のような新任教師が独りで行くのは憚られることである。しかし、美沙子には呼ばれたら従わざるを得ない事情があるのだった。
 美沙子は理科準備室のドアを軽くノックする。
 「あの・・・。高野です。殿井先生はいらっしゃいますか。」
 暫く沈黙が流れた。
 (不在なのかしら・・・。)
 そう思って出直そうとした時に中から低い声がした。
 「開いているので入りたまえ。」
 命令口調と取れなくもないような言い方に美沙子は感じた。
 「し、失礼します。」
 ドアノブを回すと、古い木製のドアが軋んで開いた。
 「そのドアは取っ手に付いているノッチを押すと内側から鍵が掛かるようになってるんだ。生徒たちが突然入ってきて、聞かれたら困るような話を聞かれんとも限らんだろ。一応、錠は下しておきなさい。」
 殿井は美沙子自身に鍵を掛けろと言っていた。男と女が二人だけになろうとしている部屋に内側から鍵を掛けるのだ。しかもそれを自分からしなければならない。美沙子はこれも自分を守る為なのだと思うことにした。ガチャリという音がして、理科準備室が殿井と美沙子だけの空間になる。
 「まあ、そこに座りなさい。」
 殿井が指し示したのは、細長い理科準備室の壁に沿って置かれた古い応接セットの片割れのような長椅子だった。殿井が何処からか運び込んだものらしかった。殿井自身は部屋の一番奥の窓に向けて置かれた机の前の回転椅子に座っている。元応接セットのソファは殿井の座る椅子よりはかなり低い位置になる。自然と美沙子は殿井を見上げるような視線になり、それでなくても弱い立場に居ることを感じてしまう。
 「あのデパートの店長はかなり怒っているらしくてね。絶対に犯人を捕まえてやると息巻いていたよ。それだから学校への依頼もかなり強硬でね。まいったよ。」
 「えっ。で、どうされたんですか・・・。」
 (まさか・・・)という思いが美沙子の脳裏をよぎる。
 「何も出さないって訳にもいかなくなって、仕方なく去年の職員旅行の写真を見せたんだよ。そしたら、店の売り子に確認させるからって持帰るっていってね。」
 「お渡しになったんですか?」
 努めて責めるような口調にならないように気を付けながら美沙子は訊いてみた。
 「まあ、仕方ないじゃないか。でも、それには君は写っていないからね。」
 それは暗に、美沙子の事を犯人と疑っていると言わんばかりなのだった。それでも自分の写真は渡らなかったということに安堵の念を禁じ得ない美沙子ではあった。
 「単刀直入に訊こう。あのデパートで店長が言う狼藉を働いたというのは君なんだね。」
 「うっ・・・・。」
 殿井は睨むように美沙子の反応を見つめ続けている。咄嗟に(違います)と言えなかった自分の事を美沙子は悔いていたが、後の祭りだった。
 「やはりそうか。」
 そう言われてしまって美沙子はもう否定する機会を失ってしまっていた。
 「それに、もうひとつあの店長から聞かされた話があるんだ。応対をした店員が言うには、その時の女は首に赤い首輪を嵌めていたというんだ。一部の変態的なマニアが居て、わざとそういう格好をしたり、させられたりしてプレイとして愉しむという性癖を持っているんだというんだ。君はもしかしてそういうタイプなのではないのかな。」
 「そ、そんな・・・。違います。そんなんじゃありません。決して・・・。」
 しかし、殿井は珍しい人種でも眺めるかのような目つきで美沙子をじっと見つめている。あらぬ疑いを掛けられようとしていて、美沙子はもうこれ以上シラを切り続けることは出来ないと悟った。
 「実は・・・。あ、あの・・・。仕方なかったんです。ある男に命令されて・・・。」
 「命令されて? 君は命令されたら、そういう事をするって言うのか。」
 蔑むような目で見下されたような気がした美沙子はすぐに弁明をしなければならないと思った。
 「お、脅されて・・・いたんです。」
 「脅されていた? その男にか。」
 「あっ、えっと・・・。それが・・・、そのう・・・。」
 もうこうなってしまったら、何も隠し通すことは出来ないと思った美沙子は、この教務主事にだけは本当の事を話してしまおうと決心していた。

 「そうすると、脅されたというのはトイレに入っている写真を撮られてしまって、それを公開すると脅されたというんだな。」
 「・・・。ええ、そうです・・・。」
 「どんな写真なんだね?」
 「えっ? そ、それは・・・。他人に見られるのはとても恥ずかしいような格好の写真なんです。」
 「ふうむ。そうなのか・・・。それで、何を要求されたんだい?」
 「それが・・・。最初は短いスカートで学校に登校しろとか、そういうのでした。そのうち、ノーパンで出勤して授業に立てとか・・・。」
 「えっ? 君はそれで短いスカートにノーパンで授業をしたというのかね・・・。」
 「も、申し訳ありません。でも、そうするしかないと思ったのです。」
 「そ、それで・・・。デパートにはどうして?」
 「この間の日曜日に、手紙が届いて・・・。駅前に喫茶店に来るようにと書いてあって・・・。」
 そこから、その時の経緯を美沙子はかいつまんで殿井に説明せざるを得なくなったのだった。

 「どうやって、ガラスの壺に小水を入れたりしたんだ?」
 「それは、そのう・・・。その時は試着室に入っていまして。突然、尿意を催してどうしても我慢出来なくなってしまったのです。そしたら、その男がガラス瓶のようなものを何処からか持ってきまして。それで、もうそこにするしか我慢しようがなかったのです。」
 「ふうむ。すると、その小水が入ったガラスの壺はその男が置いていったということだな。」
 美沙子は少し迷った。しかし後で辻褄が合わなくなるのを恐れて正直に本当の事を言うことにした。
 「いえ・・・。ガラスの壺を置いたのは、私です。棚のほうに、元に戻しておけと言われて。他にどうすることも出来なかったのです。」
 「何だって? それじゃ、やっぱりあの狼藉の主犯は君と言う事じゃないか。」
 「ああ、でも・・・。私が迂闊でした。あの時は・・・、もう洩らしてしまうんじゃないかとパニックになってしまっていて。冷静に考えることが出来なかったのです。」
 美沙子はあの時の事を思い返していた。自分の行動がこんな事を後に引き起こすなどとは、考える余裕は全く無かったのだと自分の至らなさを反省するのだった。
 「そして、大人用オムツ売場でそれまで着けていた紙オムツをその場で付け替えたっていうのも君なんだな。」
 「ああ・・・・。そ、そうです。その時も、仕方なかったんです。もう、その時まで着けていた紙オムツが洩れ出しそうで・・・。ああ、あんな恥ずかしい事をしたなんて・・・。」
 「そうだとすると君の写真をみたら、その店員はすぐに君と判るだろうな。」
 「・・・。ええ、多分・・・。」
 (だから、私の写真は渡せなかったのです)と喉元まで言おうとした時だった。
 「あの後、実は思いだした事があってね。君がうちの学校に着任してくる際に履歴書が学校に送られて来ていてね。あれに写真が貼ってあったのを思い出したんだよ。」
 教務主事のこの言葉を聞いて、美沙子は絶望的になる。自分の写真が学校には無いことが唯一の救いだったのに、それが脆くも打ち砕かれてしまったのだった。
 「すぐにあの履歴書は私が回収してね。私が密かに持っている。」
 その事は、自分は助けられたのだという事ではなく、自分の運命はこの教務主事の手に握られてしまったのだということを意味していた。
 美沙子は自分が如何に甘かったかを思い知らされていた。あの日、殿井に下宿先のアパートを訪ねられ、デパートの事件について詰問された際に、自分からフェラチオを申し出たのには、フェラチオをしてやることで、あの件について黙っていて貰うとなれば、教務主事にも共犯に問えるのではないかという計算があったのだ。若い女教師にフェラチオを強要して秘密を隠したとなれば、この教務主事自身も失職を問われかねない罪を犯したことになると考えていたのだった。しかし今、立場は完全に殿井が優位に立っていることは疑いようもなかった。今、将に美沙子がデパートの店長から叱責を受けることになるかどうかは殿井が手にしている美沙子の履歴書の写真ひとつに掛かっているのだった。
 美沙子は腰掛けていた低いソファから床に滑り落り、両手を床に突いた。
 「どうか、お願いです。わたしを助けてください。お願いです。何でもしますから・・・。」
 将に土下座の格好で殿井の前にひれ伏す美沙子だった。
 「何でも・・・かね。ふうむ・・・。」
 頭を上げられない美沙子の頭上で殿井が身動きする気配を感じさせた。美沙子には見ないでもズボンのベルトを外しているのだと察していた。そして今はこの男の奴隷になるしかないのだと覚悟を決めたのだった。
 「先生っ。私にまたご奉仕させてください。」
 そう言うと、顔を上げ、目の前の殿井のズボンのチャックを引き下ろしたのだった。

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