アカシア夫人
第八部 周到なる追尾
第八十七章
「ねえ、マスター。マスターも知ってるんでしょ。」
「は、何をですか。」
皿を拭く手を休めることもなく、カウンターから問いかけた貴子にマスターは問い返す。
「真行寺っていう未亡人の噂よ。」
貴子はさすがにちょっと声を潜めて囁くように言ったのだ。
一瞬、間が空いた。
「わたくしは、他人の噂などというものは相手にしない事を信条にしております。」
それは、暗に知っているということを洩らしたのに他ならなかった。しかし、そう言われてしまうと、それ以上を追求することが出来なくなってしまった。それでも、喫茶店のマスターにまで届くという程度には別荘地じゅうをその噂が駆け巡ったのだということは確認が出来た。
その時、カウベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ。いつもので・・・。」
「ああ、頼むよ。」
入ってきたのは岸谷だった。貴子は身を凍りつかせる。しかし、何気なく振舞うのだという覚悟は決めて出てきたのだった。貴子はとにかく前へ進まなければと思っていたのだ。
岸谷のほうを真っ直ぐは見れないが、目の前を通り過ぎて、奥にあるいつものテーブルへ着くのは気配で感じられるほどには意識していた。新聞を広げる音がするので、そっと目を上げて岸谷のほうを窺がう。
広げた新聞紙で岸谷の顔は見えない。しかし、貴子が注目したのは、岸谷のズボンのポケットから今にも転げ落ちそうにしているキーホルダーの付いた鍵束だった。
マスターが珈琲を盆に入れて岸谷のほうへ持ってきた。カップとミルク壷、シュガー瓶を置くとそのままキッチンのほうへ下がる。新聞からは目を離さずにいた岸谷は突然、新聞をばさりとテーブルに置くと立ち上がった。その瞬間に、ズボンのポケットから鍵束が滑り落ちた。
「マスター、ちょっとトイレ借りるよ。」
キッチンで背を向けているマスターに岸谷は声を掛けると立ち上がってトイレのある廊下のほうへ向かう。
貴子は反射的に考えるより前に動き出していた。背を向けているマスターのほうを見ながら、岸谷の居た席のほうへ向かうと、後ろ手に手を伸ばし、鍵束を探る。音がしないようにそれを掌の中に掴むと、ジーンズのショートパンツのポケットに捻じ込む。
「マスター。お会計、お願い。」
貴子は電光石火の如く行動した。こっそり岸谷の落とした鍵束を手に入れると、一目散に電動自転車に駆け寄り、街へ向かって坂を漕ぎ出したのだった。目指すのは、以前にも一度使ったことのある、駅前商店街の合鍵屋だった。
合鍵屋から全速力で戻ってきたので、幾ら電動アシストがあるとはいえ、貴子は息が切れそうになっていた。それでも怪しまれない為には出来る限り急がなければと思っていたのだ。山小屋喫茶カウベルの駐車場には、岸谷が何時も使っているジープがまだ駐められていた。貴子はカウベルの入口の外で深呼吸しながら息を整えてから、扉を開けた。
「あ、マスター。あれっ。バードウォッチャーさんは?」
てっきり居ると思った岸谷の姿が見えないのを不審に思いながら、貴子はマスターが出て来るのを待った。
「ああ、何か、鍵を落しちゃったとか言われて、歩いて家へ戻っていかれたんですよ。車のキーも一緒だったみたいで。」
「えっ、そうなの?もしかしてこれじゃないかしら。」
「ああ、確かそんなキーホルダーの付いたのを持たれてましたよね。」
「じゃ、もしよかったらマスターが預かっておいて、訊いてみてくれませんか。お困りでしょうし。」
「そうですか。承知致しました。」
貴子は、マスターが何も怪しまないで受け取ってくれたので、ちょっとほっとしていた。岸谷は何時、何処で落としたのかは気づかないでくれたようだった。
次の日も、気になっていたので貴子は再び、山小屋喫茶カウベルを訪れないでは居られなかった。岸谷本人には出来れば顔を合わせたくはなかったのだが、幸いにも貴子が店に入った時には、岸谷は来ていなかった。
「あ、木島の奥さん。つい今しがた、岸谷さんが帰ってゆかれたところですよ。奥さんに拾って貰って、本当に助かったと仰ってました。私からお礼を伝えてくれと頼まれていましたので。」
いつものニコニコ顔で貴子にそう言って出迎えてくれたマスターの表情に、貴子は嘘は無さそうだと一安心したのだった。
「わたしはただ拾って、お届けしただけですよ。大した事をした訳ではないので。」
「あの方、とても困っておられたようなんです。家のほうは、山荘の近くに合鍵を隠して置いてあって、すぐに入れてさほど困らなかったみたいなんですが、車のキーがスペアが無かったんだそうです。何でも古い車で、米軍か何かが使っていた車両を譲り受けたとかで、日本で合うキーがなくて、スペアが作れなかったそうなんです。何せ、この界隈で車が無いと、移動とかとても不便でしょ。それで、岸谷さん、さっそく、街へ出て、中古のオートバイを当座しのぎにと貰い受けてきたんだそうです。そのオートバイでウチへ乗り付けてきたところで、奥さんが拾われた鍵をみて、本当に助かったって。いま、オートバイを車に積んで帰っていったところですよ。」
「あら、良かったわ。それは・・・。」
貴子が心配していたのは、岸谷が鍵を何処で拾ったか訊いてくるのではないかという事だった。店の前の道路脇の叢むらにあったと答えは何度も練習しておいたのだった。それでも、嘘が顔に出ないか、心配で仕方なかったのだ。
その時だった。ダラッ、ダラッ、ダラッという聞き覚えのない音が店の近くに聞こえてきた。
カウベルの音と共に、入ってきたのは岸谷本人だった。
「おや、奥さん。助かりましたよ、あの鍵のこと。ありがとうございます。」
「ああ、岸谷さん。今、マスターから聞いたところです。御礼なんて。私、ただ拾って届けただけですから。」
「いや、こんなに早く見つかるなんて。本当に助かった。マスターから聞かれたかもしれませんが、車が使えなくなると思って。それが一番の問題だったんですよ。でも、おかげで、いいバイクが手に入ったんです。当座、車の代わりをと思って、街の中古屋を当たってみたら、安いバイクが偶々手に入って。乗ってみたら、意外に便利なんで、今もそれに乗ってきたところです。多少古くて手を入れなければならないんだけど。」
「オートバイにもお乗りになってらしたんですか。」
「はあ、昔、若い頃にちょっと。エンジンとかいじったりするのが好きなものですから。」
「へえ、いろんな趣味をお持ちなんですね。」
「いや、趣味ってほどでもないんですけどね。じゃ、どうも。お邪魔しました。」
そう言ってからいつもの席へ戻ってゆく岸谷の後ろ姿を見送る。貴子はほっと安堵の吐息をたてていた。岸谷は何処で貴子が鍵を拾ったのかには着目していなかった。自分が一時、鍵を持ち出していたなどとは露ほども疑っていない風だった。しかし、この時の会話が後で重要な意味を持ってくることを貴子はまだ気づいていなかった。
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