アカシア夫人
第八部 周到なる追尾
第八十四章
老人が語ってくれたところによると、真行寺家は由緒ある華族の血をひく名家だったようだ。爵位は廃止されて、名誉は特にはなくなったものの、先祖から譲り受けた財産はそこそこあったようだ。しかしそれも次第に使い果たし、東京にあった屋敷は人手に渡り、この蓼科の地に古くから持っていた別荘だけが残ってそこに移り棲むようになったのだそうだ。その際には既に未亡人になっていて、何人もいた使用人たちも既に解雇していて、自分の身の回りの世話をして貰うのに、この吉野という老人だけを雇っている状態だったようだ。
移ってきて、吉野と蓼科で暮らすようになったのは、貴子と同じくらいの歳ではなかったかという。貴子は自分が実際の歳より、いつも若く見られるのを自覚はしているので、ひょっとすると自分よりももっと若かったのかもしれないと思った。
「それが、どういった経緯で、突然、居なくなってしまったのでしょうか。」
貴子には、老人が「亡くなった」と確か言ったようだったのが、気に掛かっていた。俊介は亡くなったとは言わなかったからだ。
「これは、儂の推測なんじゃが、奥様は誰ぞに脅されていなさったんじゃないかと思うんじゃ。」
「脅されていた?」
「ここを立ち去る1年ぐらい前からじゃったと思うんじゃが、奥様がある時から急に思いつめたような顔をなさることが多くなってな。その頃、何かあるんじゃないかと儂も心配をしておったんじゃ。じゃが、最初のうちは何で、そんなに思い詰めておられるんか判らんじゃった。その頃はもう経済的にはそんなに裕福っちゅうことはないが、代わりに殆ど独り暮らしなんで、出金もそんなにはかからん。お金に困ってっちゅうことはなかったと思うんじゃ。」
「経済的に窮してというのが理由ではないと・・・。」
「ううむ。儂はその頃、屋敷の、というかその別荘の裏手にあった小屋に寝起きしちょって、まあ半分住み込みみたいなもんじゃったんじゃが、時々、暇を出されるようになってな。」
「暇・・・?」
「暇っちゅうても、休みを取らされる訳じゃ。どこぞの温泉へ泊りに行って来いちゅうてな。最初の頃は、儂を気遣こうてのことなんかと思って勿体ない思うとったんじゃが。儂が仰せの通りに温泉なんぞに泊りに行ってきた後に限って、更に思い詰めたり落ち込んでいる様子がだんだん判ってきたんじゃ。」
「吉野さんが不在の時に限って、何かあったと・・・。」
「そうじゃな。儂に暇を出すゆうんは、つまりは人払いをしとるんじゃないかと・・・。」
「人払い?つまりは、誰かが居ると都合が悪いことがあると。」
「そう。まだそんなに歳というんじゃない後家さんじゃけ、誰ぞがやって来とるんじゃないかと最初のうちは思うとったんじゃ。」
「つまりは誰かとの逢瀬ということですね。」
「そう。しかし、それにしては、その後に塞ぎこむっちゅうのがよく判らん。若い男との逢瀬でもあるんじゃったら、余計元気になりそうなもんじゃ。先に亡くなってしもうた旦那さんに申し訳ないっちゅう後悔がありんさったのかとも思うたんじゃが。」
「でも、そうではないと・・・。」
「旦那さんが亡くなってもう何年も経っとったし、そもそも奥様はそんなに旦那さんのことを好いちょらんかったようなんじゃ。これは儂が奉公するようになる前のことで、前に居った女中頭から聞いた話なんじゃが、元々華族の家系だったんは、奥様のほうで、旦那さんは婿養子だったそうなんじゃ。一応実業家で、羽振りがようて、親による政略結婚みたいなもんじゃな。華族のほうは台所事情が苦しかったようで、その救済の意味もあったようなんじゃ。ところが、その婿養子が事業で失敗してしもうてな。それが元で、東京にあった屋敷も手放さにゃならんくなって。旦那のほうも事業に失敗してからは自暴自棄になっとって、酒びたりの毎日じゃったそうなんじゃ。もう離婚するしかないと決心までしたそうなんじゃが、離婚まで行く前に旦那が酔って、道路に飛び出て、交通事故に遭ったそうなんじゃ。即死だったそうじゃ。それで、奥様も女中等に暇を出して、ここ蓼科に引っ込まれて。それで儂を雇うことになったんじゃ。」
「でも、心の中では、亡くなった旦那さんのことを愛されていたということではないんですか?」
「それが・・・。儂がお仕えをし始めた、こちらに越して来られてすぐの頃なんじゃが、奥様は結構、人付き合いがお盛んで、色んな人を屋敷にお呼びしたりしておったんじゃ。そん中には、若い殿方も結構居られてな。」
「亡くなった夫に貞節を守ろうというタイプではないと・・・。」
「まあ、まだ若くして未亡人になられたんじゃから、無理もないとは思うんじゃが。」
貴子は、その未亡人の蓼科での暮らしぶりを想像してみる。人恋しくなる気持ちは貴子にも判らないではない。自分ならどうだろうか・・・。突然、自分に当てはめてみて、俊介のことを思い出し、思わず、顔を赤らめてしまう。
「ところが、ある時からぱったりと、男遊びが止まってしもうたんじゃ。男遊びだけじゃなくて、近所付き合いも、女友達との行き来もじゃ。」
「それで、思い詰めたような風になってしまったんですね。」
「ま、そういう訳じゃ。」
「でも、さっき脅されていたんじゃないかって仰ってましたよね。」
「それがじゃな。突然、この蓼科から引っ越すと言い出した直前なんじゃが、変な噂が立ってな。」
「変な噂・・・?」
貴子はこの時になって老人が突然、神妙な表情に変わったのを見逃さなかった。
「何か、儂はよう知らんのじゃが、インターなんとかいうのがあるじゃろ。」
「インターネットですか?」
「そうそう、そういう奴じゃ。それの中に、奥様が出てるのを観たもんが居るとかいう話じゃった。」
「インターネット上に?誰がいったい、そんな事を?」
「それが噂じゃからな。みんな人伝に聞いたいうて、誰がどこで見たんか、さっぱり判らんかったんじゃ。ほしたら、奥様が急に慌てだして、引っ越すいう話になったんじゃ。」
「で、奥様は今どうしていらっしゃるのですか。」
「それが、・・・。」
「それが?」
「引っ越されてすぐ、どうも首を縊られたようなんじゃ・・・。」
「何ですって。」
吉野という老人から聞かされた真行寺という未亡人の顛末は貴子に衝撃を与えた。老人によれば、噂が耳に入ってすぐ、夫人は今度は本当に吉野老人に永久の暇を出して解雇し取る物も取り合えず、蓼科の地から去ってしまったのだそうだ。その後の消息は、親族となのる人から届いた一通の訃報だけだったという。
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