アカシア夫人
第八部 周到なる追尾
第八十三章
次の日、貴子は早速、自分の電動自転車を出してきて、すずらん平のほうへ向かってみる。但し、岸谷の家のほうへは近寄らないように気をつけていた。
一軒の別荘の前で、老婆が玄関先を箒で穿いているのが見えた。貴子は自転車を降り、押しながら近づいてゆく。
「こんにちは。こちらの方ですか。」
老婆は不審そうに顔を上げて貴子のほうをみた。
「ここんちの管理と掃除なんかをやっている者ですけど。この家の持ち主はこの夏はまだ来てませんよ。」
「そうですか・・・。でも、この近くにお住いなんでしょう?」
「まあ、そうだけど。何か?」
貴子は一瞬、どうしようか迷ったが、思い切って訊いてみることにした。
「真行寺って、お家。ご存知ありませんか?」
その名前を聞いて、老婆の眉が一瞬吊り上がったのを貴子は見逃さなかった。
「さあ・・・、知らんね。」
返事は素っ気無いものだった。それ以上切り出しにくく、諦めざるを得なかった。
「どうも、お邪魔しました。」
実は、その返事はもう2度目だった。(そう言えば・・・。)と貴子は思い出していた。以前、カウベルのマスターに未亡人のことを聞きだそうとした時にも微妙にはぐらかされた様な気がした事をだった。
(やっぱり吉野卓三って人を訪ねてみよう。)
貴子は決意を新たにする。しかし、その吉野が棲んでいるという小屋へ辿り着くには、まず岸谷の家の前を通らねばならない。今は出来れば岸谷には出遭いたくなかったのだ。
(今頃の時間はよくカウベルに行っている筈だわ。)
時計を確かめると、意を決して前へ進むことにした貴子だった。
岸谷の家の近くでは全速力で駆け抜けた。貴子の電動自転車はモーターが軽快な音をあげて、貴子の踏力をアシストしてくれた。岸谷邸の前を一気に駆け抜けると、そのまま細い山道をぐんぐん昇ってゆく。電動でなければ貴子には決して昇り切れはしないような急な坂道だった。
(バッテリが持つかしら・・・。)
メーターが心無しか、下がり始めたような気がして不安が募って来た時、目の前に薄汚れたような小屋が見えてきた。
「こんなところまで儂のようなもんを訪ねてくる人がおるとはなあ・・・。」
その小柄な老人は、ショートパンツから剥き出しになっている貴子の生脚をじろじろ見ながら感慨深げに言うのだったが、声はおもったよりしっかりしてると貴子は感じた。玄関で案内を請う貴子のことを、外から縁側のほうへ回るように案内して、自らも家の中を通って周ってきたその老人の足取りも矍鑠たるものだった。
「真行寺さんのこと、聞きたいゆうとったが、あんたさんはどういうご関係ですかな。」
貴子はどう切り出したものか、そこではたと困ってしまった。さしたる関係もないのに他人の事を根掘り葉掘り聞きだそうというのだから、怪しまれるのは必至だった。
「私、東京のある画廊で、さるご婦人の肖像写真を見かけたのです。それがもしや、真行寺さんではないのかと思ったものですから。」
貴子は咄嗟だったが、思い切って問題の中心を突いてみることにしたのだった。
吉野という老人は、それを聞いて驚愕したように目を丸くしていた。
「な、何と・・・。」
それからがっくりと首を項垂れると、昔の回想に浸るかのように考え込んでしまう。
「やっぱり何かご存知なのですね。急に居なくなってしまわれた経緯を。」
老人は深く息を吐いた。
「もう儂も長くはないし・・・。それにあのお方ももう亡くなられてしもうたのじゃし。今更、秘密でもないのかもしれんなあ。」
「差し支えないところだけでも結構です。あの方のことについて、お教え願えないでしょうか。」
老人は顔を上げ、目を細めて貴子の顔をじっと食い入るように見つめてから言った。
「お嬢さん。何が理由で、あの方のことを聞きたいのかはわからんが、それなりに理由はおありなさるんじゃろう。儂が少しだけでも役に立てるんなら、お話しようかいの。」
「お嬢さんだなんて。もうそんな歳じゃあないんですよ、私。あの、木島貴子と申します。アカシア平という新しく出来た分譲別荘地に今年の春から棲んでいるものです。」
「はあ、貴子さんと仰るのですな。左様、私は真行寺夫人の屋敷、とは言ってもこっちの別荘のほうなのじゃが、そこで下働きのような事で、お仕えしとったんです。」
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