アカシア夫人
第八部 周到なる追尾
第八十五章
貴子は、吉野老人に地図を描いて貰った、旧真行寺邸の山荘の前に立っていた。すずらん平のメインの通りから細い路地で分け入ったところにあるので、知らない人には分かりづらい場所だった。この地の新興別荘地の最近の山荘と違って、古くからある別荘で、大きさも造りの重厚な感じも今のものとは比べ物にならない。しかし、人が棲まなくなってすっかり朽ち果ててしまってはいた。
老人が言っていた通り、玄関に鍵は掛かっていなかった。最早、盗まれて困るような物はすっかり持ち去られているせいだろう。
貴子が軋んだ音を立てる分厚い玄関扉を抜けてすぐのところにあるホールへ入ってみると、すっかり家財道具はなくて、がらんとした大広間がそこにあるだけだった。不思議と蜘蛛の巣などは掛かっていない。
以前、貴子は不動産屋の営業マンから聞いた話を思い出した。木造の屋敷も相当古い物だと、柱の木などは石蝋化してとても硬くなって、虫が食えないほどになるのだという。そうなると、虫を捕らえにくる蜘蛛も棲み付かなくなるものらしい。人が棲まなければ埃が立つこともなく、あるところまで汚れた後は、そのままで何年も居続けるのだという。この真行寺邸が将にそういう状況のようであった。
嘗ては豪華なシャンデリアが掛かっていたらしい場所にはそれを吊っていたフックだけが残されている。しかし、貴子の目を引いたのは、その少し離れた場所に不釣合いに設置されている滑車だった。シャンデリア用のフックは別にあるので、明りを吊り下げる為のものでないのは明らかだった。フックよりは新しいもので、錆び付いてはいなさそうだった。
更に奥へ向かうと、小さな小部屋がみつかった。目を引いたのは、入口にある閂錠用のものらしき金具だ。横に棒を通すことで閂をすることが出来そうだ。金具はやはり屋敷そのものよりは新しく据えられたもののようだった。不思議なのは、屋敷の中にそんな閂の付いた部屋があることだ。中は四畳ほどの狭い部屋で、住いとして使われていたとは思えない。窓は明かり取りが天井近くに付いているだけで、薄暗い。そして真正面の壁には何に使うのか、鉄の輪が天井近くと床面近くに四つ金具とともに据えられている。何かの調度品をぶら提げる為にしては、奇妙な位置にある。
(誰かを拘束する為のもの・・・?)
貴子はその壁の前に立ってみる。脚を開いて人の字の格好になる。さらには両腕を広げて万歳の格好をする。手首と足首にあたる場所のすぐ先に鉄の輪がくるようになっているのが判る。
(手錠と足枷を掛けて繋ぐとすれば・・・。)
次第に貴子は怖くなってきた。
(だとすれば、ホールにあった滑車は、人を括って吊り下げる為のものではないか。)
ホールに戻って滑車の真下に立ってみる。両手を揃えて頭の上へ上げてみる。そこで括られて、天井から縄で吊るされているところを想像する。
(滑車まで伸びた縄を繋ぎ留めるとしたら・・・。)
そう思った窓際のところに窓枠などの調度品とは明らかに時代の異なる手摺りが据えられているのに気づいた。
(小部屋に監禁したり、ホールの天井から吊り下げて自由を奪う・・・。)
貴子は未亡人が誰かに受けたかもしれない被虐の姿を想像して戦慄を覚えたのだった。
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