アカシア夫人
第七部 罠と逆襲
第七十七章
「何があったんですか?」
背後の山荘のほうへ向かおうとする俊介の身体を貴子は押し留める。夫が居るのは山荘の向う側だった。
「待って・・・。俊ちゃん。抱いて・・・。」
抱きついたまま、目を閉じた貴子の姿に、俊介は何を求められているかすぐに感じ取った。そのまま背中を両手で抱きしめながら、貴子の唇を奪う。俊介の腕の中で、貴子の身体が熱く燃えているのが感じられた。自分の身体に押し付けられている貴子の胸には下着も着けられていないのはすぐに判った。慌てて穿いたような様子のジーンズの下にもおそらく下着はつけていないのだろうと俊介は想像する。それだけで俊介のほうもズボンの下で勃起し始めてきたのを感じていた。貴子にもそれが判ったようで、脚を絡めてきた。
貴子が俊介の下半身に手を伸ばす。ズボンの前部分の膨らみを上から確認する。そのはっきりとした感触を感じると、もう我慢が出来なかった。拙い手探りでチャックを押し下げ、ズボンの中に手をつっこんで肉塊を探り当てる。既にこちこちに硬くなっている肉棒の前にいきなり跪くと、口に含んだ。
「ああっ・・・、奥さあん。」
(うぷっ。)「し、静かにっ。」
俊介が声を挙げるのを制すると、再び口に含んで絞り上げるように屹立したペニスを吸い上げるのだった。
「ごめん、俊ちゃん。これ以上は後で。」
はっと我に返った俊介は、突然立ち上がって口を手の甲で拭っている貴子を見つめていた。
「夫が裏に倒れているの。私じゃ助けられないの。俊ちゃん、何とかしてっ・・・。」
「わ、わかり・・・ました・・・。」
俊介は何が何だか判らないまま、現場らしい山荘の裏へ貴子を伴って廻ってゆくのだった。
「こりゃあ、トラバサミですね。」
「トラ、バ、サ、ミ?」
「ええ、欧米じゃ、ベアートラップって言うんですが、将に熊用の罠です。数年前にこの近くに熊が出た時に、地元の猟友会が仕掛けたんですが、まだ残ってたんですね。今じゃ、使用が禁止されてるんで、人を襲う熊なんかが出た緊急時だけ使われることがあるんですよ。」
「まあ、そうなの。どうしよう。助かるかしら。」
「ま、生け捕り用の罠なんで、命がどうってことはないですが、怪我はしちゃってるでしょう。待ってください。手じゃ無理なんで、車からバールか何か取ってきますから。」
「貴方、大丈夫っ。三河屋さんが助けに来てくれたから。もう少しよ。」
和樹は痛みに堪えかねて、もう虫の息という感じで声も出せなかった。
足の傷を消毒した後、強いブランデーを口に含ませて、和樹が漸く正気に返ったのは、俊介が助けに来てから1時間ほどが経っていた。足に巻いた包帯には血が滲んでいたが、出血が止まらないというほどではなかった。応急処置は出来たので、翌朝大きな病院で診てもらえばいいということになる。
「じゃ、奥さん。今晩はもう遅いんでこれでっ。」
そう言った後、俊介は山荘の玄関で、片目を瞑ってウィンクしてみせる。それが意味するものは、貴子にもよく判っていた。貴子のほうでも夫が居る傍でそれ以上、何も出来ないことは重々判っていたのだった。
翌朝、和樹は朝早くに一人で出掛けていった。三河屋の俊介に送って貰ったらと提案した貴子だったが、和樹はオートマチック車だから片足でも運転出来ると言い張って、包帯を巻いたままの足を引き摺りながら自分で運転して出ていったのだった。車の運転が出来ない貴子にはどうしようもなかったのだ。
貴子は夫を見送った後、山荘の裏に廻り、バルコニーの下の和樹が倒れていた辺りを調べてみることにした。俊介がトラバサミと呼んでいた熊捕獲用の罠はまだ置いてあったが、危なくないように俊介の手で閉じられていた。バネの力で締め込むように出来ている半月形の鉄の曲げられた板で出来ていて、捕まった動物が逃げられないように、傍の木の幹に鎖で繋がれていた。その場所の前に貴子も蹲ってみる。見上げると山荘のバルコニーが見渡せる。ここなら、こっそり潜んでバルコニーの上の様子を窺うのにいかにも都合が良さそうだった。山荘の横手にこの冬用に最近作って貰った薪小屋が見えた。その小窓から和樹が見張っていたに違いない。後ろから近づいてきたとすると丁度罠のある辺りに踏み込んでしまったのは無理もないと思った。
ふと、目の前の藪の枝に何かきらきら光るものが引っ掛かっているのに気づいた。手に取ってみると、アルミを蒸着されたテープの小切れのようだった。パーティで使うクラッカーの中に仕込まれているようなもののようだった。
(何だって、こんなものがこんな処に落ちていたんだろう。)
貴子には狐につままれたような気持ちがしたのだった。
それから貴子は和樹の書斎に向かってみた。机の上には、前夜回収したスタンガン、トーチライト、ストロボフラッシュや手錠などが置かれている。俊介には見つからないようにこっそり貴子が回収してしまっておいたのだった。
「あんな夜にあんなところで何してたんスかねぇ。」
そう言って首を傾げた俊介に、何か怪しい物音がしたような気がしたので夫に見に行って貰ったのだと嘘を吐いていた。まさかバルコニーの上で痴態を演じて、岸谷を誘き寄せていたのだなどとは言えなかった。
ふと机の抽斗に目をやると、まだ開いたままになっていた。鍵も刺さったままだった。何時もの鍵束は、和樹が出てゆく際に貴子が手渡しているので、それに付いているのとは別の合鍵のようだった。何となく虫の知らせのようなものを感じて、もう一度抽斗の中を検めてみる。奥に何やら見慣れぬものがあるのが見えた。
引き出してみると、包み紙で包装されたプレゼントのような小箱だった。包み紙は既に一度開けられているようで、そのまま開くことが出来る。小箱の蓋を開けてみると、中に入っていたのはネクタイピンだった。そのデザインは何処かで見たことがあるような気がふとしたのだが、何処で見たのかは貴子は思い出せなかった。
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