coffee6

アカシア夫人



 第七部 罠と逆襲




 第七十二章

 「ねえ、貴方。山小屋喫茶のカウベルへ連れてってくださらないこと。」
 貴子は思いきって、夫の和樹にお願いしてみることにしたのだ。一人ではとても岸谷に対峙することはおろか、顔を観ることも恐ろしくて出来ない気がしたが、夫が傍に居るなら岸谷に出遭っても何とかなりそうな気がしたのだ。一人では出遭えない岸谷だったが、自分の裸の写真を持っていると知ってからは、どんな顔をして今も居るのか表情だけでも見てみたい誘惑には抗しきれなかった。
 
 「どうしたんだい、急に。珍しいじゃないか。お前から喫茶店へ行こうなんて。」
 「だって、いつもこの山荘にばかり篭っているのって、退屈なのですもの。偶には家以外でも気晴らしがしたいわ。」
 実は、貴子は和樹が留守の際には結構頻繁に、自分一人でカウベルへは通ったりしていた。それが岸谷の家に忍び込んで、あの写真のポスターを観てしまってからは怖くていけないでいただけなのだ。

 「あ、いらっしゃい。奥さん。おや、旦那さんも。」
 貴子はマスターが、(旦那さんといらっしゃるのは久しぶりですね)などと言うのではないかとちょっと心配したのだが、マスターは決してそういう事を迂闊に喋る男ではなかった。
 「いつものお願いね。」
 夫と来る時もいつも同じにしている席へ貴子はどんどん先に立って進みながら、気づかれないように、マスターにウィンクしてみせる。
 電動自転車の事も、マスターには話してあったのだが、夫には言わないで欲しいと頼んであった。マスターも(承知しました)と答えるだけで何故とは訊かない。そんな心遣いが、貴子にマスターへの信頼感を与えているのだった。
 「僕にはブラック珈琲をエスプレッソで。あ、こいつには・・・。」
 「ダージリン茶でよろしいですね。」
 「さすが、マスターはちゃんと覚えているんだね。」
 「私たち、なんか、もう常連になっちゃったみたいね。」
 そう言いながらも貴子は夫とはほんの数えるほどしか来ていないのを思い返していた。
 「只今お持ちします。」
 そう言ってマスターがカウンター向うの厨房のほうへ下がってゆくのを目で見送りながら、貴子は店内を見渡してみる。他には客は居ないようだった。
 「珈琲なんか、うちで挽いて飲んでもおんなじなのにな。」
 「あら、そんなことないわよ。やっぱりこういう雰囲気の中で呑むからこそ、いい味に感じるものよ。」
 その時、ガタンと音がして、トイレに通じる廊下の奥から一人の人影が現れた。
 「あっ・・・。」
 思わず、貴子は声を挙げてしまっていた。その声に振り向いた和樹は、何度か見たことのある男の姿を確認していた。そして、暫く前になるが、自分の妻を折檻して、雨に降り込められて乗せて貰ったのを白状させた、その車の持ち主であることをはっきり思い出していた。
 貴子は次の瞬間には目を逸らして、顔を伏せていた。その男が変わりないか、調べてみたくて、わざわざ夫に付いてきて貰って、カウベルまでやってきた貴子なのだったが、いざとなると、なかなか岸谷のほうを見ることも怖くて出来ないでいた。
 足音で、岸谷がいつもの奥のテーブルの席に着くのを感じ取ってから貴子はちらっと目を上げて盗み見するのだった。岸谷はこちらに注目するでもなく、さっきまで読んでいたらしい新聞を取り上げると、読み返し始めたようだった。
 「こんなに客が少なくて、よくやってゆけるよね。この店。」
 「そ、そうね。何だか、私たちだけの為に店を開けて貰っているみたいで悪いみたい。」
 貴子も和樹に同調するように言ってみた。
 「そんな事ないですよ。これでも、朝の早い時間とか、夜遅くとか、時間帯によっては色んな方がいらっしゃるんですよ。」
 突然声がして、何時の間にか飲み物の盆を持ってマスターが近づいていたことに気づいた和樹と貴子だった。
 「いや、そりゃ、失礼しました。でも、昼下がりのこの時間帯は、僕らばっかですよね。」
 「はあ、まあ、そうですかね。」
 マスターは肯定するでも、否定するでもないような言い方をしていた。
 「マスター。じゃ、ここにお代、置いてゆくから。」
 遠くで岸谷がそう言って立ち上がるのが見えた。その姿を貴子の目がじっと追っていた。

madam

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