inroom

アカシア夫人



 第四部 突然やってきた闖入者




 第三十七章

 「いいか。放してやるから、すぐに手錠の鍵を咥えて戻ってくるんだ。そんな格好じゃ外に逃げれないだろ。鍵を持ってきたら、何もしないでそのまま出ていってやる。」
 「ほ、本当?本当ね。何もしないで出ていってくれるって・・・。でも、このストッキングだけは解いてね。」
 「ああ、分かった。出る前に解いていってやるよ。」
 「わかった。わかったわ。」
 「ようし。交渉成立だ。ほれっ。」
 男が漸く貴子の胴を挟み込んでいた両脚を開く。もたつく脚で貴子は何とか立ち上がる。さすがに男に股間を見せるのは憚られた。背中を見せたまま、よろよろ洗面所の廊下へ向かう。鍵束は隅に落ちていた。それを咥えて拾い上げるのに、膝を突いてしゃがみこまなければならなかった。鍵束は角の隅っこだったので、簡単には咥えられない。舌を出して床を嘗めるのも厭わずに鍵束を手繰り寄せる。
 やっとのことで、鍵束を口に咥えると、男のほうに向き直る。無毛の股間を初めて注視した男の目がぎらついていた。途端に、男が約束どおり何もしないで出て行ってはくれない気がしてきたのだ。
 「どうした。早く鍵を持って来いよ。何時までそんな裸で居るつもりだ。」
 貴子は鍵を咥えたまま、男に近づき過ぎないような位置で立ち竦んでいた。男の目をじっと見つめる。
 (信じられる目だろうか。)
 「おいおい、どうしたんだ。まさか、そんな格好で外に出るつもりじゃないだろうな。そんな格好晒したら、二度と世間で生きていけないぜ。」
 貴子は迷った。しかし最後に決意したのだった。

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 鍵束を床に落すと元あったほうへ蹴り飛ばす。それから急いで玄関に向かう。背中で錠を廻そうとするが、ストッキングが邪魔して握ることが出来ない。手を使うのを諦めて口でつまみを噛んで回す。下側は何とかそれで開いたが、二重ロックにした上のラッチには口は届かない。
 「おい、何してんだ。約束が違うだろっ。早く手錠を外せっ。」
 男が階段下で喚き始めた。しかし、貴子は男を無視していた。台所にスツールがあった。それを倒さないように足で滑らせるようにして玄関へ運ぶ。ラッチの前にスツールを据えると、その上に飛び乗った。今度は何とか口がラッチに届く。つまみを歯で噛んで横にスライドさせる。
 (開いた・・・。)
 外に出る前に何かないか辺りを見廻す。台所のテーブルに畳んだばかりのタオルがあった。その一枚を顔で広げて端を口で咥える。タオルが全裸の貴子の前にだらりとぶら下がる。股間までかろうじて届くかどうかという長さだった。しかし、何も無いよりはましだと思った。
 「おい、待て。こらっ。手錠を外せ。外す約束だっただろうが。」
 男はまだ喚いていた。しかし貴子が一向に応じないのを見てとるや、今度は手錠を嵌められた階段の手摺りを足でどんどん蹴り始めた。手摺りはかなり頑丈な造りだったが、折られてしまわないとも限らなかった。貴子は慌てて外に逃げることにする。
 不自由な後ろ手で玄関ノブのラッチを押し下げ、お尻でドアを押し開ける。丸いつるっとしたドアノブだったら、ストッキングを巻かれた手では開けられなかっただろうと貴子は思った。
 (まだ運がある。)
 一旦、裸足のままで外に出たが、思い返してもう一度、中に入り、下駄箱から野良仕事で使っているゴム長を足で落とし、そこに足を突っ込む。手を使わないで履けそうなものはそれしか見当たらなかったからだ。
 表に出た。全裸の格好に風は冷たかった。しかし躊躇している訳にはゆかなかった。ゴム長の脚で、全力で坂を駆け下りた。口に咥えたタオルが翻るのも構っていられなかった。

 山小屋喫茶が見えてきた。
 (助かった。マスターなら助けてくれる・・・。)
 そう思いながら近づいた貴子を絶望が襲う。その日に限って、臨時休業の札が掛っていたからだ。何時も一人で店を切り盛りしているので、マスターは不在の筈だ。男は何時追ってくるか分からない。絶望感に呉れながらも、貴子は更に坂を走って下ってゆく。

 アカシア平から降りてきて、最初の十字路に差し掛かったところで、貴子は目を見開いた。目の前の道を見慣れた軽のワゴンが通り過ぎたのだ。三河屋の俊介の車だとすぐに気づいた。もう一刻の猶予もなかった。既に車は角を通り過ぎていた。貴子は股間を蔽うものが何も無くなるのを覚悟で咥えていたタオルを放し、十字路の角に走り込んで大声を挙げた。

madam

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