ゴリラ

エッセイ


私のヰタセクスアリス 2


 森鷗外の小説なのか自伝なのかよく分からない手記、ヰタ・セクスアリスを先程読了した。これを読んで改めて性の欲望とは何なのかを考えてしまった。
 必ずしも鷗外の手記に書かれていた訳ではないが、性欲には三種類あるように思う。一つは、自分が好きな人、通常は異性だが、一緒に居たい、添い遂げたいという衝動だ。二つ目はセックスをしたい、或いはもっとありていに言えばセックスで快楽を得たいと言う衝動である。セックスは基本的には異性間でするものだが、快楽を得るという点では手淫も含まれるだろうし、同性愛のうちの衆道も含まれるだろう。三つ目は鷗外の手記には書かれていないが、自分の遺伝子、DNAを後世に残したい欲望というのがあるように思う。類人猿の多くには(類人猿と会話した訳ではないので想像でしかないが)これが欲望としてあるように思えてならない。一番強いボス猿が多くのメスを従えて交尾を独占するというのはこの三番目の要素としか考えられないからだ。また多くの獣から畜生、虫に至るまで意識してではないかもしれないが交尾に至るのは本能的に自分の遺伝子を残したいという要求からで、快楽や愛情を求めてというのは(会話が出来ないから本当のところは判らないにせよ)まずないのではと思われる。
 三つ目はちょっと後に置くとして、一番目の要素と二番目の要素は微妙な関係にある。一番目の要素は鷗外にはかなり強くあったものの、自分が美貌に恵まれなかったというコンプレックスからそれを抑えている節がある。その割にはいろんな女性からは好かれたという経緯を持っていることもさり気なく自慢している。二番目の要素のセックスによる快楽を得たいという欲望は少なくとも文字面からは鷗外自身はあまりなかったことが強調されているし、成し遂げた後も気持ちよかったなどという下りは全く無い。ある意味では鷗外は二番目の要素の性的欲望は強くなく、プラトニックな愛には飢えていたと取るのが自然な読み方かもしれない。
 ここでは鷗外にしろ、自分自身にしろ、個別の個人の感情を離れて一般論として語ってみたい。つまり愛情というものと、セックスによる快楽への衝動の二つだ。私はこの二つは全く独立した別のもの、あるいは状況によっては相容れないものではないかと解釈している。
 セックスによる快楽への衝動には、自由にならないというもどかしさから来る性急さがあるように思う。そう言うと愛情だってそうではないかと言う人がいるかもしれない。しかし、愛情は相手次第で、両方が好きになり合うことが無い訳ではない。むしろ結婚に至るのはそういう場合が殆どだ。
 一方セックスには社会的な制約がある。セックスの衝動があるからと言って、所構わず性器を露わにして異性に飛びかかったら社会的な制裁を受ける。結婚前の男女が性行為をしようとすると、必ず社会に隠れて密かにしなければならない。だからこそ性欲の衝動が生まれるのだという気がする。男女の性交ではなくても、自慰の手淫や男色、実際の性行為ではないにせよ、女性のスカートの中を覗いてみたい、パンツを降ろしてみたいなどの衝動は禁じられていればこその衝動なのではないだろうか。
 これが結婚というのを機会に大きく社会との関係は変化する。社会から性行為が認められるようになるからだ。大っぴらに大衆の前で性行為をするのは憚られるが、社会から隠れて二人だけの世界で性行為に及ぶことは当然の事として認められることになるのだ。しかしここには逆説的なジレンマがある。社会に認められるということは、その事に対して抱いていた制約を超えての衝動というものがなくなり、すぐに倦怠というものに繋がっていくからだ。そうなってくると大事になってくるのが、社会からは眉を潜められる行為、すなわち変態行為ということになってくる。縛り、口腔性交、剃毛、加虐・被虐、戸外性交、露出放置、排泄暴露等々、他人には言えない性行為がなければ継続的な性欲は持続出来なくなる。これが出来ないと不貞、不倫といった結婚に対する背徳的な行為に走らざるを得ず、それは将来的な破局をもたらすのだ。
 若い時、つまり結婚する前の愛情には必ずしもセックスを最終ゴールとして設定する必要がない。愛情という欲望のゴールはおそらくは、お互いが好きだということを確認することだろう。それまではそれを獲得する衝動に駆られて思いを募らせ続けるのだろう。そして結婚後のセックスは、それまで持ち続けていた愛し合いたいという衝動が今もまだ残っているかどうかの確認作業なのではないだろうか。結婚後のセックスは従って回数を重ねるごとに衝動を満足させるというのには飽き足らなくなり、あらたな挑戦を求め続けるか、倦怠を隠しての惰性的継続ということになるのだろう。
 ここで本来の道からちょっと逸れて、男色というものと先の二つの要素との関係を考えてみたい。男色には愛する人と一緒になりたいという気持ちと、同じ性の者と快楽を共にしたいという二種類があるように思っている。自分自身にそういう気持ちの経験がないので想像でしかないのだが、一緒に居たいというだけの同性カップルと、一緒にセックスを楽しみたいという同性カップルがそれぞれ居て、そのふたつは違うものなのではないかと思う。本来、人間は同性同士の行為では快楽を得にくい構造になっているような気がして、同性同士が行為によって快楽を得るというのはかなり特殊なテクニックを要求されるのではないかと思う。また愛する人と一緒になりたいという場合の男色やレズビアンの場合は、どちらか或いは両方がトランスジェンダー的な要素を持っていなければならないような気がする。この場合、行為としてのセックスは必要ないのかもしれない。
 さて、最後に残った三番目の要素、自分の遺伝子を残したい欲望だが、これはその前の二つ、愛する者と一緒に居たいというのと、セックスによって快楽を享受したいという欲求とは全く別次元のものであると思う。そもそも自分の遺伝子を残したい欲望などというものが存在するのだろうかとはずっと思ってきた。愛をすることと、セックスをすることとは自分の遺伝子を残すなどと言うこととは全く繋がらないと思ってきた。しかし齢を取って考えてみると、自分の遺伝子を残すには、愛をすることとセックスをすることは必須の必要条件なのだということが結果として判ってくる。齢を取るということの意味は、セックスによってそれを実現するのが最早難しい年代に差しかかるということだ。そういう年代になると、次第にこの三つ目の要素、自分の遺伝子を残したいという欲望が強くなってくるような気がする。その原因は最早出来ないことという要因が付加されてくるからではないだろうか。出来ないとしたくなるのは人間の性とは言えないだろうか。
 よく子供に愛情を注ぐということはあるが、それは自分の遺伝子を残したいからというのではない気がする。守ってやらなければという気持ちであって、自分の遺伝子を残す為ではない。冷静に考えてみると、親と子という関係の際には、自分の遺伝子を残すというのは今既に居る子でなくても、他に作ってもいいという状況があるからかもしれない。それが祖父、孫という関係になると通常違ってくる。孫が居る立場になると、最早新たに自分の遺伝子を持つ子を作るというのは難しい年代の筈だからだ。よく孫ほどかわいいものはないというが、これこそが自分の遺伝子を残したいという欲望の顕れなのではないだろうか。
 このように性の欲望という三つの要素はお互いに独立し合いながらも、完全に別ではいられないという密接な関係性を持ったものなのではないだろうか。


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