妄想小説
料理研究家の誘惑
一
「はい、千鶴さん。収録はこれで終了となりまあすぅ。」
ADの声に千鶴はそそくさと前掛けのエプロンを外す。
「お疲れ様でした。ちょっとゲストの方に挨拶してきます。」
千鶴は声を掛けてきたADを置いてゲストの二人の方に向かう。
「瑛太はん。本日はほんまに収録、ご苦労はんどした。おおきに。」
「あ、いや。こういう番組は初めてなので緊張しました。なあ、七之助?」
「ええ、やっと無事終わったって感じです。」
「七之助はんも、えろうご苦労はんどした。お疲れ様どす。」
千鶴は七之助にも丁寧にお礼の言葉を述べるが、目は瑛太の方に釘づけのままだった。
「ねえ、ディレクター。今日の千鶴さん、かなりテンション高かったですねえ。」
「ああ、君もそう思うかい。テンションもだけど、かなりでれでれって感じだったよね、あの二人に。特にあの男優のほうに・・・かな?」
「瑛太さんですね。このところ、売れっ子ですもんね。ああいうのが好みなんですかね、千鶴さんて。」
「まあ、熟女殺しってやつかな。ふふふ。」
そんな噂話を近くでされているとも知らない千鶴は控え室に戻っていくその日のゲスト二人を見送るのだった。
千鶴は料理研究家だ。料理番組の先生を日替わりで務めている一人だったのだが、その腕が認められてこの局で自分の冠番組まで持つようになった。毎回ゲストを二人呼んで、酒のあてになる料理を出す「あてなよる」である。その日のゲストは歌舞伎界新鋭の御曹司、尾上七之助とこの所映画、ドラマで人気急上昇の若手俳優、永山瑛太だった。その瑛太とは初めての共演だったのだが、千鶴は最初のひと目から心を奪われていたのだった。
「じゃあ七之助、これで。これから歌舞伎座だろ?」
「ああ、そうなんです、瑛太さん。それじゃこちらで。」
七之助と別れ、局の玄関ホールからタクシー乗り場のほうへ向かう瑛太に背後から声が掛かったのだった。
「瑛太はん。」
その京都弁は収録中ずっと聞いていただけに、すぐに誰だかわかる。
「大原さん。もうあがりですか?」
「ええ。なんや、瑛太はん。もしお帰りどしたらタクシー、ご一緒しまへん? さっき、プロデューサに聞いたらマンションが同じ方角だとお聞きしましてん。」
「ああ。僕、広尾のほうですけど。」
「そないどしたら途中まで一緒どすわ。チケット、貰ろうてますさかい。」
そう言うと、千鶴は半ば強引にタクシーに手を挙げて合図するのだった。
「赤坂のほうへ、お願いしまっすぅ。」
先にタクシーに乗り込んだ千鶴は、隣に瑛太が乗り込んでくるのを待つ。
「じゃ、途中までご一緒に。」
その声に千鶴はにっこりと微笑むのだった。
「瑛太はん。これから少しお時間、おまへんやろか。ほら、収録中にいわはってましたやろ。一度、包丁の腕、見せてみたいって。」
「ああ、そうでしたね。」
「ほしたら、今からウチのマンションに寄らはらしまへん? 私も今日はもう仕事は終りましてん。新鮮な鯖が入ったところで、どう捌こうかと思うてましてん。良かったらウチで瑛太はんの腕前、観して貰いひんやろか。」
「え? まあ、いいですけど。」
「あら、うれし。」
瑛太は突然の大原千鶴の誘いに戸惑ってはいた。そもそもこの料理研究家は京都に実家があると聞いていただけに、東京にも家があるらしいのが意外だった。そしてどんな暮らしをしてるのかにもちょっと興味が湧いたのだった。
「京都にお住まいだとお聞きしたのですが・・・。」
「ああ、本宅は京都におますぅ。でも東京のお仕事も多いんで、こっちにはマンションを借りてるんどす。まあ、仮住まいのようなもんですけど。」
「ああ、そうなんですね。」
そう答えながら、そうすると東京のマンションの方は独り住まいなのだなと見当をつける。
(女ひとりのマンションに上り込んでもいいものだろうか。)
一瞬、躊躇した瑛太だったが、自分と大原の齢の違いと考えて問題になることはあるまいと勝手に考えたのだった。
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