エッセイ
男と女の不思議
今日、偶々の事だがラジオでフランス語講座を聞いていて、フランス人が日本の温泉に初めて入るというエピソードをやっていた。その中でフランス人女性が日本の温泉を紹介して「大丈夫よ、男女は別になっているから」と説明する部分があった。つまりフランスの様に水着でではなく、全裸になって風呂に入るのに男女一緒ではないから問題はないことを説明しているのだった。
最初は何気なく聞き流していたのだが、よくよく考えてみれば不思議なことだ。つまり人前で全裸になるのに同性ならば問題はないが、異性の前では恥ずかしいという意識のことだ。
異性の裸の姿を見た事のない子供や、思春期の頃なら判らないでもないが、いい大人になって、男女がお互いに異性が全裸の時、どんな姿なのか知らない訳ではないのに全裸で向き合うと恥ずかしいというのはどうしてなのだろうかと今更のように不思議に思ったのだ。
勿論、同性同士であっても全裸になって一緒に居るというのは恥ずかしい面はなくはない。男性ならばペニスの大きさや形が自分の方が貧弱ではないか心配になる。女性であれば、特に乳房の大きさや形がより魅力的かどうかが気になるのかもしれない。しかしそういう恥ずかしさと異性の間の恥ずかしさは別のものである。いや、別だと私は思う。
聖書によれば、アダムとイブの楽園の時代に、全裸で居て恥ずかしくもなんともなかったものが、知恵の林檎をこっそり食べたことでお互いの恥ずかしさに気づいたとある。これは実にいろいろな事を示唆している。
聖書が何時からあるのかは諸説はあるだろうが、人類史上のかなり古い時代に遡るのは間違いないだろう。それだけ古い根源的な問題であるということだ。知恵があるから、知恵を授かったから恥ずかしいことに気づいたというのも重要な点だ。男女の身体の違いは本来隠されているべきものであって、その違いを知ってしまうというのが恥じらいに繋がるという解釈でもある。そしてその恥じらいこそが性欲の根源であると私は思っている。
男女が全裸の姿をお互いに晒すことは恥ずかしいことだとされている。それは子供の時分からの教育で主にそうなっているだけで、人類という生物学的、動物学的な本能によってではないような気がする。何故なら人類という種族以外は、衣服で性的なオスとメスが互いにその特徴を隠すようにして生活し、生きているというものは見当たらないからだ。
それはそうと認めた前提で、何故恥ずかしいのかについては説明されていない。幼児教育、児童教育の現場で、何故恥ずかしいのかが説明されることは無い。何故なのか質問することさえタブーとされているような気がする。しかし、実はそれはセックスへの渇望、つまり性欲とそれをコントロールすることに密接に結びついているように私は密かに思っている。
男女が普段から全裸を互いに晒すことは、不用意に、または不必要に性欲を誘発するからという解釈も出来るかもしれない。逆説的に普段禁忌とされる男女間の全裸姿の開放は、人類という種の継続的な存続の為に必要不可欠な性欲を醸成させる為のものなのかもしれない。
最近、誤った似非人道主義者が横行している。似非人権主義者というのかもしれない。こういう者は、夫婦別姓を主張したり、LGBTの権利をことさら主張したりするものも多い。こういう輩の中には、男女同権を勘違いして、子供の頃から男女のトイレは一緒にすべきなどと主張している輩もいるそうだ。そういう人間は性の機微というもの理解していないようだ。男と女が全裸になって向き合ったら何故恥ずかしいのかなど、考えたこともないのだろう。
2021.4.16 記
top頁へ戻る