痴漢餌食

エッセイ


女性専用車両への男性乗込み ― 痴漢は何故いけないのか



 割と最近の事だが、題記のことがニュースになった。当の女性車両にわざと乗り込んだ男性は差別問題を喚起する為に行動を起こしたと表明しているという。
 この問題をバイキングという昼間のバラエティ番組が取り上げていた。どんな問題提起に発展するのか興味があったので暫く観ていたが、おざなりの社会通念を述べるだけで終わってしまい、番組制作者側の能力の低さを感じただけで終わってしまった。この程度しか展開出来ないのだったら、わざわざ取り上げるなという気持ちである。

 まず最初に取り上げるべき問題点である女性専用車両が出来る発端となった痴漢対策の前提である「痴漢はいけない事か」という論点がある。私自身は痴漢はいけない事であるという立場に立っている。しかし、何故かという理由について、おそらく一般の人とは違う意見なのだろうと思っている。
 普通の人は、痴漢が何故いけないのかについて、される当の女性が嫌がっているという事を挙げるのだろう。嫌がることを無理強いするのは私も基本的にはいけない事だと思う。しかし一方、性の問題、とりわけ男と女の関係においては非常に微妙な問題だと私は思っている。
 性の快楽の中には、嫌だと思うのを無理強いすることにある場合が多々あると思っているからだ。「いやよ、いやよも好きのうち」というのは昔から言い古されてきた言葉であるが、ある意味究極を突いていると思う。嫌よと突き放すからこそ、更に追い求めたくなり、それを乗り越えてまでも求められるからこそ、女は(大抵の場合の例であるが)より歓ぶのだろう。だから痴漢は正当化されるべきだという短絡的な主張をしたいのではない。

 私の論点に行く前に、別の視点からも考えてみたい。女性は何故痴漢を嫌がるのだろうかという点である。したくもない相手だからという主張をする女性も居る。それならば、したくもない相手ではなくて、してみたい相手だったらいいのだろうか。
 私が偶々観ていたこの問題を取り上げた番組には、笑いを取るネタとしてであろうがフットボールアワーの岩尾が出ていて、「お前がしたら完全にアウトだろう」と言われて多少の笑いを取っていた。笑いのネタとしては許されるとして、こういうことはどうだろうか。
 もし痴漢してきたのが、今を時めくフィギュアスケートの金メダリスト、羽生結弦だったらどうだろう。今年メジャーリーグへ移籍した大谷翔平だったらどうだろう。近年不倫ドラマでも好評を浴び続けている俳優、斉藤工だったらどうだろう。
 相手がそんな人だったら赦してしまう。いや、赦すどころか是非痴漢でもされたいという女性が居るだろうことは想像に難くない。そういう風に思う女性に対して私も敢えて否定まではしない。
 しかし、逆の立場についてはどうだろうか。例えば見掛けがフットボールアワーの岩尾風の男性について、羽生や大谷や斉藤だったらいいけれど、アンタは駄目と全女性から否定される立場の男性にとって、これは差別ではないのだろうか。
 女性専用車両に乗り込んでくるのが、羽生や大谷や斉藤だったら許すけれど、岩尾だったら許せないというのは差別ではないのだろうか。もし差別だとしたら、そういう女性たちは差別を許容する世の中、社会を望んでいるのだろうか。
 女性専用車にわざわざ意図して乗込んできた今回の男性に対して、電車内の女性たちは一応に「出て行け~!」と叫んだそうだ。こういう女性たちに限って、羽生や大谷や斉藤が近くにやってきたらキャーッと叫んで抱きつこうとするのではないだろうか。
 女性が好きなタイプの男性を求めることを私は否定しない。むしろ健全な姿だと思う。しかしだからといって、場所をわきまえず、アンタは嫌いだから近寄るな。こっちは私のタイプだから何をしても赦すし、自分も赦されると思うはちっとも健全ではないと思うのだ。問題はわきまえるという事なのかもしれない。

 差別ということについて別の視点から考えると、昔のアメリカにおける黒人差別問題がある。黒人差別が普通にまかり通っていた時代には、女性専用車両に乗って来る男性に向かって罵声を挙げたのと全く同じように、白人専用車両に乗って来る黒人に罵声を揚げ、罵声を挙げた当人たちはそれが全く正当なことだと思って疑わなかったに違いない。社会を変革して行こうという時には多かれ少なかれ似た様なことは起きるものだと私は思っている。
 女性蔑視の時代に、女性の平等を唱えて手を挙げた人達がいたように、女性保護が行き過ぎた社会に反旗を翻すとまでは言わないにせよ、一石を投じようとする人に非難が浴びせられるのは、よくある話だと思うとともに、ちょっと踏みとどまって冷静に考える必要があるように思う。

 若干、話を元に戻すと、私は痴漢という行為にはそれをする男性の方にも、それをされる女性の方にも快楽が生じると考えている。私がこれまで記した妄想小説の中にも、痴漢行為を受けて、身体が感じてしまい、あの場所が潤ってしまってそれを恥じる女性というのが数多く出てくる。実際、そういうことは私の妄想だけでなく、現実にあることだろうと思っている。しかしこの事と痴漢行為の正当性は別問題である。
 またこの事実は男性から女性へ向けてへの行為だけに限定されるとは考えていない。女性から強制的に男性に向けて性的な行為がなされる時に、全ての男性がそうされたいと考えていないと同時に、全ての男性が不快感を覚えるわけでもないと思うのだ。

 全く知らない相手だからという論点もある。だからいけないのだと主張する人も居ると思う。しかしここにも論理性はない。知らない相手だからよけい興奮するということもあるだろう。知り過ぎた相手だから最早興奮出来ないということもあるだろう。未知であるということが、興奮する要因のひとつになり得るというのは確率的には大いに考えられることだろうと私は考えている。しかしここでもだからと言って痴漢行為が正当化されるという訳でもないとも思う。

 最後の論点、何故私が痴漢行為は正当化されてはならないのかという点について述べる。それは性への魅惑を損なうものだからというのが私の論点である。
 性への魅惑というのは非常に難しい哲学的な問題であると私はずっと考えてきている。奔放、磊落になったところにそれは存在しないと私はずっと思っている。
 性には古来から禁忌がつきものだ。それは論理的に理解出来るものではない反面、人間はそれをずっと本能的に、あるいは動物的に理解、あるいは察知してきたのだと思う。
 何時でもどんな場所でも性行為は禁じられず、解放的に許されてきたのだとしたら人類はとっくに滅びていたのではないだろうか。男性器も女性器も常に隠されることなく、相手が望む、望まないに関わらず性行為をなすことが許されてきたら、人類はとっくに性行為に飽きて、その結果子孫を残すことなく絶え滅んでいたのではないだろうか。性というのは、禁じられることがなければなりたたない欲求なのではないかと私は思うのだ。

 だからこそ、痴漢行為はしてみたい、されてみたいという思いがあるにも関わらず、してはならない、許してはならない行為なのではないだろうか。それはしてみたい、されてみたいという性の欲求を燃やし続ける為の大きな原動力の一つだからではないのだろうか。

 2018.3.1

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