エッセイ
里美の冒険
つい最近、好きなミステリー作家である島田荘司氏の小説「里美の冒険」を読了した。ここにわざわざその件を挙げるのは、その中で執拗なほど語られるミニスカートとその奥に覗くパンツの話が気になったからである。
小説の内容で、本論に関係する部分をおさらいすると、主人公であるうら若き、そして本人はそれほど自覚していないが、フェミニンな魅力に溢れた主人公は何故かミニスカートばかりを穿こうとしている。法律家の研修である司法修習生の実地訓練の場である地方都市の弁護士事務所実習の場において、指導する弁護士先生から窘められても、それでもミニスカートをやめようとしない。一方の物語の中心人物である犯人と目されている殺人容疑者である被告は、性犯罪歴を持つ浮浪者ということになっている。その被告が面会にくる主人公の里美の短いスカートを観て、脚を開かせてその奥にパンツを執拗に覗こうとする。里美は真実の自白を交換条件に覗かせることを迫られるが、決して応じようとはしない。最後に、事件の謎を解く大きな鍵となるのが、この疑惑の中心人物の執拗なまでのスカート覗き癖という話になっている。
推理小説のトリックの世界では、他のどの推理小説作家の追随も許さない奇想天外な謎で定評のある、ユニークなプロットを得意とする島田荘司氏であるが、多くはない所々に垣間見られる性的表現において、いささか偏った一面を見せることがある。そのひとつが本作品における、短いスカートとパンツ覗きに関する記述である。
この小説の読後、ストーリーの一般的な感想とは別に、頭に去来してきたものは、世の男性の女のスカートの裾の奥にパンツを覗きたいという衝動の普遍性といったようなものである。
島田氏は、その性癖を、性に関する偏執狂の心理として描いているが、それは通常には見られないアブノーマルな世界として描いているのではなく、健全な男性に極普通に見られる、いわば逆に正常な神経として描こうとしている節が感じられる。氏の得意な最後のどんでん返しにおいて判明する、実はこの性犯罪マニアと思われていた被告が実は社会から裏切られた被害者本人であったという謎解きの伏線にもなっているからである。
そしてこのストーリー展開から感じたことは、男が女のスカートの奥を覗きたいと思う衝動は、本来人間の本質的なものなのではないかということで、それは何故なのかを少し掘り下げて考えてみたいと思うきっかけになったのだ。
実は、これまでにも、女性のスカート、あるいは短いスカートから覗ける所謂パンチラの功罪といったものに関して、いくつか文章を綴ったことがある。好きな題材なのかもしれない。
それらの文章の多くは、そのこと、つまり男がパンチラをしたがることの倫理性、つまり悪いことなのかどうかに焦点を絞ったものが多い。ここでそれを繰り返すつもりはなく、今回は、何故男はそういう心理になるのかという、似ているがちょっと方向性を違えたところについて掘り下げて考えてみたいと思っているのである。
スカートの女性を観て、その下に穿いているものを覗いてみたいと思ったことのない男性はおそらく居ないのではないだろうか。それは勿論、スカート丈が短いほど、その思いは強調されるが、普通だったら見えない筈の長いスカートであっても、座って膝を崩したり、裾を直したり、踝の靴下を直したりしようとした拍子に、思いのほか裾がずり上がって、見えない筈だった膝小僧やその上の腿のあたりまでがちらっと見えただけで、ミニスカートの時と同じ衝動が湧き上がってくるのを感じる筈だ。
それが何故なのかを考えてゆく上で、それでは一体何を見たいのかを冷静に考えてみたい。
普通に考えれば、誰しも、それは女性が穿いている下着だろうと答えるに違いない。しかし冷静に考えてみると、下着そのものが見たくて覗くのでは決してないのだ。
普通の男性で、思春期からまだ経験の浅い青年期には、女性の下着をまじまじと見るという機会はそうはなく、どんなものか想像し、興味を掻き立てられることはあるだろう。しかし、女性の下着がどんなものかを知ってしまった後でさえ、ミニスカートを見れば、その奥に覗くものを観たいのだ。スカートの奥に覗いて見える白い三角ゾーンを何度か目撃したとしても、その後でやはりそういうシーンになりそうになれば、また観たいと思うものなのだ。
これは見た事がないから観たいということでは決してないのだ。覗けばどんな格好になるかしっかり見知った後でさえ、やはりもう一度みたいのである。
「男って、変よね。何であんなもん、見たがるのかしら。」「いいじゃないか。見たって減るもんじゃなし。」これらは小説やドラマでよく使われ、使い古された男女のこの件に関する言い回しである。
しかし、このことは何等かの真実を隠している、あるいは意図的にそれをはぐらかそうとしているように思われてならない。女性は一部に「あんなもん」と言う人がいながら、決して大っぴらに丸出しにしようとはしないし、事実、駅の階段で見えそうになれば、何かを当てて隠そうとする人の方が圧倒的に多い。「見たって減るもん」は物理的にはないかもしれないが、精神的なところでは、何かが確実に減っているように思われる。パンツが覗けてみたことのある女性と、一度も覗けたことがない女性とでは、女性の価値の上で何らかの変化が生じているということは、男の目からすると否めない。
一歩踏み込んで、何故パンツなのかという点になると、それは男女間の性交の根幹である、性器を蔽うものだからなのだろう。人間の動物的本能による衝動の根源とも言える。
しかし、ここで注意しなければならないことは、パンツを見たい衝動であって、女性器を覗きたいという衝動ではないことだ。私は男性側の、女性器を観たいという衝動と、スカートの奥にパンツを覗きたいという願望は、天と地ほども離れた差があるものではないかと思えて仕方ない。これらは同じものではないし、延長線上に置くのも首を傾げざるを得ない問題と思われる。
これは理にかなわない不思議な現象である。性器を蔽う布だから興奮するのに、性器そのものを見る興奮とはかなり異なる。スカートの奥に覗いたものがパンティなら少しいいが、女性器だったが願ったり叶ったり、ということは決してないのだ。
女性器をまじまじと見ることに快感を覚えるか、不快感を覚えるかは人によって様々なのではないかと想像される。女性の身体は美術の世界では美しいものとして描かれるが、女性器を美しく描いた作品というのは出遭ったことがないし、そういう作品があるというのも聞いたことがない。一般的に、女性器を露出させた女性の裸像というのは数は少ない。が、無い訳ではない。このような作品に言われることは、「女性器を露出させているが、それでも醜くない。」というような表現ではないだろうか。女性器の露出は、一般的には美観を損ない、若いうちに観たいという衝動はあっても、目にしてしまった後、何度も繰り返し観たいというものではないように思う。それが、何度経験してもやっぱり観てしまう、スカートの奥のパンツとは違うものと思えてならない。
暫く前の時代までは、女性の下着が覗くと興奮するのは、女性器を蔽うパンティだけでなく、乳房を蔽う布であるブラジャーでもそうであった。薄手のブラウスの背中にブラジャーの紐が透けてみえたり、ボタンで留めた胸元の隙間にちらっと白い下着が覗いて垣間見れるだけで興奮したのは、人間が幼かったせいなのか、時代が古かったせいなのか、今となっては自分には判らない。
女性の下着姿や、それを誇示したり強調したりするファッションが蔓延るようになって、おそらく思春期の経験浅い男子であっても、ブラジャーが見えたぐらいで興奮する若者はもはや居ないのではなかろうかと思う。しかし、嘗ては確実に、ブラジャーも下着であって、性器を蔽おうものではないのに、パンティが覗くのと同じ興奮を与えた時代があったのは間違いない。
これは以前にも書いたことのある視点であるが、殆ど似たような形状であるのに、スカートの下に覗く下着のパンティと、パンティと同程度にハイレグなカットの水着では、観たときの衝撃が全然違うということがある。白い水着は実際その部分だけ見れば、区別がつかない。しかし最初から全部見えている、水着の股間部分は、ちらっと垣間見えるスカートの下の下着が舞い起こす興奮には及ぶべくもない。それは何故なのかという問題である。
もうひとつの視点として、おなじパンチラでも、見え方によって興奮度や衝撃度が異なるという点がある。私はこれを美しいパンチラ、美しくないパンチラとして分類している。
最も美しいパンチラは、女性がぴったり合わせた膝の奥に、逆三角のデルタゾーンとして真正面に見えるアングルである。それほど短い丈という訳でもないのに、タイトなスカートである為に座った際に覗いてしまうというシーンである。この適度な逆三角を形づくる為には、女性の腿は適度な肉付きを持っていなければならない。がりがりに痩せていて、丸見えになっているのは見苦しく、むちむちに腿が太っていてはみ出た肉で短いスカートなのに覗かないのは見苦しいを通り越して醜い。
最も美しくないパンチラは、いわゆるもろみえという、股の部分全体が見えてしまっている場合だろう。この場合には三角形にはならず、四角形や台形の形に露わになる。スカートを真下から覗く場合や、女性が短いスカートなのに、股を大きく広げている場合に出来るシーンである。膝を閉じないでしゃがんで見えるパンチラは将にこれで、多くの場合、どきっとはするが、美しくなく、何度も観たいものとはいえない。見終わった後に不快感が残る。
その中間的存在が丸く見えるパンツである。これはかなり短めのスカートが翻って、女性を後ろから眺めた時に起きやすいシーンである。見えないかと思ってしきりに注目していて、いざ見えてしまって結構がっかりするシーンとも言える。エスカレータなどですれ違うミニスカートの女性から垣間見れるのもほぼこのタイプで、見えないか期待してしまうのだが、見えても期待ほどではないことが多いのだ。
同じパンチラなのに、反芻して思い出し記憶に留めたいと思うようなパンチラと、記憶を拭い消し去りたい醜いパンチラとがあるのは何故なのだろうか。このことと、何故パンチラを観たいのかが密接な関係を持っているように思うのだ。
このように、幾つかの視点からパンチラという現象をみてくると、そこには隠そうとする意識に対しての相反するそれを観たいと思う衝動というものが根底にあるのだということが見えてくる。
隠そうとするから観たいのであり、隠そうとしているのに見えたから刺激的なのだろう。この視点に立って、少し整理してみる。
女性器は本来、見て美しいものではなく、隠さねばならないものである。尤も、美しくないから隠さねばならないのではない。何故隠さねばならないのかという点については、男がパンチラを見たがるのより更に人間の根源的な部分になるので、ここでは敢えて言及しない。
その隠さねばならないものを蔽うものであるから、それは本来恥ずかしいものなのである。その恥ずかしさゆえにその蔽うものを目に触れないようにスカートで蔽うのだ。蔽って見せないようにするから、観たいという欲望が働く。
ここには微妙なパラドックスが生じている。単純に隠すからみたいのではない。それならば男はパンツの中身を観たいのであり、女はパンツの中が見えなければパンツは見られても平気の筈だ。しかし、男はパンツの中の女性器をみたいよりは、スカートの下のパンツを見たいのであって、女性は女性器さえ見られなければ、パンツは見られても構わないという人は殆ど居ない。
ここに、スカートという女性特有の服装の秘密がある。
スカートはただ見えなくしているだけではなくて、見えるかもしれないことを予感させるものであるということである。これは男性が通常穿くズボンと対比してみるとより判りやすい。
ズボンには見えるかもしれないという要素はない。ズボン姿の女性をみて、その下の下着を見てみたいという衝動にかられる男性はまず居ないだろう。ズボン姿の女性は、その下の下着という存在を忘れさせている。しかし、スカートは違う。スカートは常に、見えてしまうかもしれないという要素を持っている。丈の長さにより、その危険度合いは異なるにせよ、スカートと名がつく限り、下から覗けば見えてしまうのだ。この常に見えてしまうかもしれないもので隠すことが、男にそれを観てみたいという衝動に駆られさせる原動力なのだ。だから、その危険度合いを増すミニスカートは余計に男心をそそるのだ。
しかし、見えそうな度合いが高ければよいという訳ではない。実際、見えてしまう頻度が高ければ高いほど、それは却って興ざめで、魅力を失うのだ。常時裾の下に下着が覗いてしまっているような丈のスカートは意味がない。これは最初から露出している水着の場合と同じといえる。水着の場合にスカート状のものを巻きつけているタイプのものがあるが、こうすることでフェミニンなところを強調するが、短すぎてパンツ相当の部分が常時覗いてしまっているものは却って見苦しく目障りに感じることも多い。
同じ短いスカートでフリルやプリーツのついた捲れ上りやすいスカートと、身体の線を強調するようなタイトなスカートとがある。どちらがよりセクシーであるのかは、女児と娼婦がどちらを身にまとうかでよく判る。フリルやプリーツのひらひらしたスカートはパンツが覗きやすいが、見えやすい分だけ、見えても期待のそぐわない。一方のタイトなスカートはぎりぎりの丈でも容易く見えることはない分だけ、男の期待を刺激する。見えるかもしれないと期待させる要素と、容易には見えない要素のバランスが、スカートがセクシーである根源なのだ。
女性がセクシーであろうとすること、それは人間が持つ種の保存という根源的、動物的な本能によるものであることは想像に難くない。スカートを女性が穿くというのも、同じことに端を発するのではあるまいかというのが私の持論である。
以前に女性のスカートと花の花弁というアナロジーに関する発想を文章にしてみたことがある。女性のスカートは蜜蜂を誘う誘因要素とその奥の花芯である雌しべを覆い隠すという花弁の役割を生物学的に果たすものなのであるという論理だ。
そのアナロジーが正しいとすると、男がパンチラを覗きたいと思う気持ちと、そうされたくないのにそうなってしまいそうな格好をする女性の心理というのは、本来根源的なものなのではないかという本論の結論が見えてくる。
ここで論じているのは、パンチラを覗く行為の善悪ではない。何故男にそういう衝動が起こるのか、何故女はそういう衝動を起こさせる格好をするのかという理由についてである。
またパンツが覗きそうな短いスカートの正当化という訳でもない。あくまでも見えそうな要素と、容易には見えないという要素のバランスが重要なのであって、性の節度だけでなく、美しさまでもがそこに支配されるという事実を述べたかったのである。
2006.12.14 記