エッセイ
著作権侵害とミニスカパンチラ
知的財産協会主催の研修会があり、著作権に関する問題について講義を受ける機会があった。著作権侵害問題は、IT 革命とも呼ばれる現代の情報化社会の変革に伴って、非常に難しい議論に発展していることを知った。それと、その話を聞いているうちに、アナロジーで筆者が日頃問題に感じている、筆者が「植草問題」と称するところの、公序良俗に関わる問題について想起され、考えるところがあったので、ここに記しておくことにしたのである。
著作権侵害問題は、自らが創作し、記述したものが、簡単には模倣、コピーされないことが、この権利を規定することにそもそも意味があったと言える。逆に言えば、現代高度情報化社会のように、著作者以外が、いとも簡単に他者が創作、記述したものをコピーし、改竄し、且つ他者に向けていとも簡単に頒布出来てしまうようになった途端に、これまでの解釈ではことの善悪を簡単には判断できないものにしていると言える。
ある意味、著作権侵害問題は、コピーし大量配布するのが誰にとっても易しいだけに、重要な問題であるのも事実である。
翻って、著作権もそのうちのひとつである、知的財産権は、その発祥のもととなった特許権の創設の由来に、「社会の産業の発展に寄与する為」に、その発明者に期限を切って排他的な実施の権利を与えるということがあるように、何らかの目的を持って設定された権利である。
今回の講義の中で、同じ知的財産権ではあるものの、著作権は、特許と同じ、「社会の産業の発展に寄与する為」ではなく、「(著作権者を保護し創作意欲を高め、文化発展に寄与すること」とある。
すぐれた創作物を他人に公開してしまうことにより、奪われてしまう著作者の権利をバランスする為に、著作者に与える特権として著作権があると考えるのが妥当と言えよう。
嘗て、優れた絵画は、高価な値で買い取った蒐集家が、排他的に鑑賞を楽しめるようなものであり、それを公開するとしても、公開される作品の元々の価値と、公開する人数等により、適正な対価の支払いがあって美術館などで公開されるべきものであった。
文章表現のような記述された著作物についても、嘗ては高価であった筈の印刷、製本、配送という行為を経て、やっと大衆の手に届くものであり、それを読むことが出来る者は、それに見合う対価を支払って鑑賞ということまで到達できたのであり、この対価の流通の中で、創作者である著者は利益を得、その利益が他人に勝手に奪われないように、著作権というものが制定されたのだと見ることが出来る。
このような、創作者が作り上げた創作物が、一般大衆の鑑賞の手に渡るまでには、幾つかの困難があり、その困難に大して対価が流通していったのではあるが、その困難は社会の発展とともに次第に低く乗り越えやすいものになっていき、時代とともに簡便に出来、それに関わる対価も低くなっていったと考えることも出来る。
グーテンベルグの印刷機による聖書の写しと、コンビニで出来るコピーとでは、同じ情報を得る為のコストが桁違いである。
同じことが音楽という創作活動においても言える。エジソンによるレコードの発明の前は、音楽を聞くには、演奏家を集めて、目の前で演奏させる必要があった。演奏家が演奏出来る為には、楽器に習熟する教育、練習の精進を行う必要があり、特定の楽曲の演奏には、楽譜の入手、楽器の入手、演奏の練習を経なければならない。それが、レコードの発明とともに簡便に再生が出来るようになり、レコードがCDとなるにつれて、再生機械もより安価で性能の優れたものを入手できるようになったのである。
そして、インターネットを中心とするIT 革命と呼ばれる高度情報化社会の到来によって、著述物にせよ、絵画等の視覚的創造物にせよ、音楽、あるいは映像に及んでも、本来の著作権者の手から、大量の一般鑑賞者に、容易く、安価に、しかも短時間で大量に、創作物が物理的に配布可能になったのである。
このように、創作物が、一般大衆に渡るまでの媒体の入手困難性を利用して、その入手に関わる作業に創作者が受けるべき利益を乗せて流通させ、著作権者に還流させていたと見ることが出来る。このことは、音楽で言えば、固定媒体でしかなかったレコードの時代から、録音テープ、特に個人レベルで安価にコピー、再生が可能となったカセットテープの時代になった時に顕著に一般に認識された変化である。それまでの課金、還元のしくみが通用しなくなったということである。
インターネットの発明、社会への普及は、レコードからカセットテープへの変革に照らし合わせてみると、理解しやすいかもしれない。インターネットによる情報伝達の容易さは、レコードからカセットテープへの転換よりも、遥かにおおきな変革であった。
それは単に伝達がより簡便に高速に大量に出来るというだけでなく、オリジナルに寸分たがわない、ある意味ではオリジナルと全く同一のものを簡単に手に入れることが出来るという点で、デジタル情報というものが持つ、最も大きな特色であるとも言える。
従って、インターネットによる情報配信においては、従来の課金、還流の仕組みはもはや成立せず、それを守る為の社会的ルールも、単なるコピーの禁止という方法では成り立たないのではないかというのが、冒頭にあげた講義での趣旨のひとつであった。
情報の伝達媒体として、インターネットによるサイトへのアップロード、ダウンロードというやり方は、最もコストのかからない方法であると言える。コピーという観点で言っても、最も容易である媒体と言える。その容易さは、逆説的な言い方であるが、もはやコピーすることを要しないほど容易であるとも言える。
インターネットのサイトを利用する人は、もはやその頁をコピーすることは稀であろう。勿論皆無という訳ではなく、一部のパソコン等を利用するのに抵抗のある、いわゆるデジタルデバイドと呼ばれる人たちにとっては、プリンタなどを使った印刷は重宝されるということもなくはない。
印刷という物理的手段ではなくても、自前のパソコンに取り込むダウンロード、そしてその後の保存という行為はもっと頻繁に行われているコピー行為である。大抵の人は、これが著作権を侵害するかもしれないという意識はなく、これを行っている。閲覧は出来るが、印刷や保存は出来ないというやり方もあるが、無線LAN の発達や回線の高速化によって、サイト閲覧自体がいつでも何処でも瞬時に出来るようになると、自前のパソコンに取り込み保存することさえ意味がなくなってしまう。
このような中にあって、創作者の利益を、「無駄でコピーすることを禁じる」というやり方で保護するというのは、もはや大いなる時代錯誤という他はないのである。残る手立ては唯ひとつ、ネット上には載せないということである。すなわちデジタル情報社会における秘匿を意味する。
このことは、広く公開することが産業の発展に寄与する特許の場合と同じく、秘匿は産業の発展という公益に反することである。著作権が文化の発展に寄与することを目的としているように、広く公開するということが妨げられては、文化の発展に寄与するとはもはやいえない。
つまり、インターネットによる情報伝達の変革は、文化の発展に寄与しながら、創作者への保護と利益の還元を両立させることが出来る、新しい仕組みとルールが求められているということを意味しているのである。しかし、これについての上手い解決策はいまだ見つかっていないようである。
論議は実は表題からは大幅に脱線している。高度情報化社会においてインターネットを通じた配信というものは、旧来の著作権による創作者の利益保護という面で問題があるというのが、これまでの論点だが、それとは異なる一面も有していることを、実は話題にしたかったのである。
それは、創作者である著作権者が、情報の公開を欲しているかどうかという観点である。権利に見合う利益の回収が難しいという前提条件から、「利益の回収次第」という議論は除かなければ、議論が進まない。「高収入が得られるなら、公開してもいい。」という人は勿論居るだろうが、それが保証される手立てがない状態では、その議論は取りあえず差し置くしかない。
そこは問題としないという前提のもと、先の設問に戻ると、現在、インターネットを通じて情報をサイトで発信している殆ど全ての人が、情報の公開を欲していると考えて差し支えないだろう。
昨今のインターネットによる個人の日記の配信行為、すなわち「ブログ」という範疇のものの、驚くべき普及度合いは、嘗ては秘匿したいという欲求に支配されていた個人の日記と言うものを、今最早、「公開し、多くの人に見られたい、読まれたい」欲求の消化物とみることが出来るのである。
この時の、公開した本人が得られる利益は何であろうか。勿論、直接的な金銭でないのは確かである。思うに、多くの人から高く評価されたという事実を受け取ることではないだろうか。
眞鍋かをりという、一介のタレントが、自身のブログの閲覧者が日本一多いということで、今高く評価されている。その事実だけで、国民的イベントである年末の公共放送の「紅白歌合戦」に出場出来たということも、あながち間違いとは言えないだろう。
このように、ブログという媒体の中では、情報を公開することで、直接的な金銭授受ではない、図りがたい利益を得ている場合があるのは否定し得ない事実である。
つまり公開は、必ずしも損失しか伴わないものではなく、利益を生む媒体となる可能性を秘めているということである。そしてこのことは、コピーライト、つまり複製を作ることの許諾権のみに頼るのではない新しい情報化社会の創作者への利益の還元方法を示唆しているようにも思えるのである。
ここら辺で、冒頭の主題のほうへ戻ってみようと思う。
「著作権とミニスカパンチラ」と仮題を置いた趣旨は、当事者が見せたいと思っているかどうかというところで繋がってくる。
若い女性が、性的魅力の大きな部分である、自分の脚や、その付け根にある性器を被う布切れを、見られてしまうかもしれない危険性を敢えて冒すミニスカートを穿いて、公共の場を徘徊する行為を、インターネットに自らの創作物を敢えて載せ、多くの人から閲覧されて読まれることを望む行為との間に類似性をみることは不自然なことだろうか。
一番大きな、そして理解しやすい共通点は、「嫌ならしなければいい」という選択肢があることであろう。
情報発信の方法に、インターネット配信ではなく、書籍、発表講演会、放送出演等々様々な手段が取れるように、若い女性が街を徘徊する格好には、様々な選択肢がある。
むしろ、ミニスカートを穿く理由に「男性の目を惹く」以外の正当な、もしくは妥当性のある理由を見出すことのほうが難しいだろう。
よくある言い方に、「別に男の目を惹きたい訳ではなくて、同性から可愛く見られたい。」という理屈を持ち出すことがある。この言葉が詭弁であるのを証明するのは難しいが、以下のように考えることが出来る。
すなわち、そう言い張る本人をも含めて、社会一般の人に指示されるであろう大多数の意見を予想した時に、「ミニスカートに男性が性的な魅力を感じる。」という確率と、「ミニスカートが女性に可愛らしさをアピールする」という確率が、どちらが多いかという問いをすることである。
ミニスカートに性的な嫌悪感を感じる、懐古趣味的な男性も居なくはないだろう。嫉妬心が元でミニスカートの女性に嫌悪感を感じる同性の女性の割合は、前者より少ないとは思いにくい。
そういう同性からの非難の目と、異性である男性から、必要以上に性的な目で見られるというリスクを負ってまでも、一部の同性女性から可愛いと思われたいのであろうか。
ミニスカートによる性的なアピールが、著作権問題と似ているのは実はそれだけではない。
コピーを取ることへの禁止事項が曖昧な点である。
例えば、街を行くミニスカートの女性を眺めることがいけない行為かどうかというのがまずある。目に入ってしまうのを禁じることが出来ないことは論じるまでもないだろう。誰も肖像権を盾に取って、街をゆく人々に「俺の顔を見るな。」ということは出来ない。
が、「嫌らしい目つきでじいっと見つめられた。」となると、多少ニュアンスは違ってくる。誰もが非難したくなる状況に近い。しかし、どこから「嫌らしい」目つきか、どこから「じいっと」かについて線を引くのは難しい。
突然、女性の足元に屈みこんで下から見上げたら、それは誰しも駄目だというだろう。急な階段で見上げたら見えてしまうのはどうだろうか。特に普通の格好ではなく、極端に短いスカートをそれと知って穿いた上で、覗いてしまう危険性の高い場所へ居ること自体、責められてもおかしくないようにも思われる。
この場合でも偶然見えてしまうのと、じいっと見つめるでは違いがあるように思えるが、線を引くことは難しい。
コピーを取ることに相当する写真を撮るという問題が次にある。断り無く相手の写真を撮ることは社会通念上、禁止すべきことと理解されている(一部の携帯電話のカメラ利用者にはそうでもない人も多いのだが)ように思われる。法律的には肖像権ということで保護されている。
しかし、個人の識別が出来る写真であれば、どうどうと肖像権を問うことが出来るが、誰とも判断のつかない、ミニスカートから伸びた脚だけの写真であったらどうだろうか。これを問う法律が理路整然と整備されたものがない。強いてあげれば、軽犯罪法の公序良俗に反する行為。もしくは、法律ではない地方自治体でばらばらに制定されている「迷惑条例」になるだろう。
しかし、これらのものも、何処までが写されていたら、公序良俗に反する、もしくは迷惑行為化が、釈然とはしない。
盗写という行為で、靴や鞄などに隠されて仕込まれたカメラで下から覗き上げるようにして短いスカートの女性の裾の中の下着を隠し撮りしたものが摘発されている。これが公序良俗に反する行為であることは、大抵の人には理解できるようだが、論理的にその妥当性を説明するのはちょっと難しい。
「公序」という意味が、普通のひとが普通にしている秩序ある行為の範疇をさしていて、誰もが普通とは思わない靴や鞄にカメラを仕込ませるという行為の故に該当としていると思われる。
しかし、普通にカメラを構えて撮った場合は微妙である。被写体が写されるミニスカートの女性一人としか見られず、写された写真がその人本人を特定できるものであった場合は、明らかに肖像権侵害といえるだろう。
その人以外にも何人も写っている街中の風景の一部として取り込まれた場合はどうだろうか。それが階段下から見上げるように撮られていた場合どうだろうか。写されたミニスカートの女性が誰だか判別がつかない下半身のみだった場合どうだろうか。その時に、下着が見えた場合と見えていない場合で区別がされるのだろうか。
撮ったほうも、撮られたほうも、格段の意図のない、突然の風でスカートの裾が翻った場合はどうなのだろうか。
よく似た状況に、台風の直後と言えば定番で必ず出てくる、スカートの裾を吹き上げられそうにしながら街中の歩道をゆく女性の姿、洪水で氾濫した水の中をスカートの裾を持ち上げて、腿を露わにしながら、水を渡っていく女性の姿の放映というのがある。
よく報道規制に引っ掛からないと不思議に思うのだが、台風の大変さの臨場感をうまく伝える映像であることは確かだ。
写真に戻って、断り無く撮ったミニスカートの脚の写真を商売の種に売り歩いたとすれば、何らかの法の規制に引っ掛かるような気がする。しかし、投稿写真の雑誌に投稿した場合にも法に引っ掛かるかどうかという点になるといささか怪しくなってくる。
不当に利益を得たかどうかという点が倫理的に問われることであるが、どこからが不当かが難しい。投稿写真の雑誌を販売して莫大な利益を得た会社は、何かを問われるかもしれないが、投稿者に支払われるお礼などはどう考えても不当といえるだけの支払いがあるとは思われない。