喘ぎ

エッセイ


性の快楽と抑制


 日本の性教育で決して語られないものに「性の快感」がある。「日本の」と断ったのは、海外についてはどうなのか知らないからだけだ。
 性について目覚める幼年期から思春期に掛けて、男であるにせよ女であるにせよヒトは自慰によって性の快楽を自ら自然のうちに学ぶのではないだろうか。その延長として男女の接合に快感が伴うであろうことは容易に想像が出来るだろう。だから教えるまでもないのかもしれない。
 大事な事は性の快楽には代償がつきまとうことだ。そしてそれは教えなければならないことなのだと私は思う。

 何故、性には快感が伴うのか。これは哲学的な問題だ。セックスの後、妊娠して出産に至るには大きな苦痛と忍耐を伴う。だからその苦労に対する神様のご褒美なのだという解釈がある。しかしこれは女性にしか当てはまらない。男性は性交で快楽を貪るだけで、その後の繁殖に関しては後の成熟した社会においては責任は伴うものの、近代に至るまでは子育ての責任というのは男性に求められるものではなかったように思われる。
 尤も、種族が生き残る為には男性は命を賭けて戦わねばならず、その代償としての性の快楽があるのかもしれない。

 性には快感を伴う快楽であると共に、抑制が求められるという側面がある。現代においては無闇に性欲を追及してはならないという社会的通念がある。これもどうしてなのかという問いにはなかなか答えられない哲学的な問題だ。
 ヒトが衣服をまとうようになって以来、衣服の最低限必要な要素は陰部、すなわち性器を隠すことだと言える。ヒト以外の動物、生物には類人猿を含め衣服で性器を隠すという習慣のあるものはない。性器を隠すという行為は性に対する抑制のもっとも原始的なものであるように思われる。
 原始的という意味では、ヒトが類人猿から進化する過程で、どのようなタイミングから性器を隠して生活するようになったのだろうか。四つ足で歩く動物は一見して普通の生活では性器は露出しにくい。ヒトが二足歩行をするようになったのと、類人猿からヒトに進化したのは時期を同じくしてであるように直感的には思われるが、そんな証拠はない。しかし四つ足から二足歩行をするようになると、性器は普段から露出され、特に男子のそれは勃起すると誰の目にも明らかとなる。そのことが社会的生活をするのに不都合になったのだろう。理由はよく分からないが、欲情した際に誰の目からも勃起していることが明らかでは都合が悪いのだろう。女性の場合は、普段から性器を露出して生活していれば、男性に出遭う度に襲われる可能性があり、それはそれで不都合だったのだろう。

 普段から性器を隠して生活するということの他に、性行為は他人から隠れて密かに行わねばならないという禁忌がある。これも何故そうなったのかは難しい問題だ。人前であからさまに性行為を行うのは不都合があったに違いない。性交中は敵に襲われやすいというのがあるのかもしれない。性交中は相手に夢中になっていて、周りに対して注意力が散漫になるだろうし、性行為そのものはエネルギーを消費するので敵にやられやすくなるのかもしれない。しかしあまり説得力のない理屈ではある。

 性の抑制の重要な要素として羞恥心というものがある。女性は性器を見られることのみならず性器を蔽う布、すなわちパンティを見られることにも羞恥心を感じる。性器ではないのに、乳房を見られることにも羞恥心を覚える。性器ではないが、男性に性欲を催させるものだからだろう。一方の男性は女性との性交は言うには及ばず、一人でする自慰行為にも人に見られることに羞恥心を覚える。性行為の最中でなくても、平気で男性器を誇示出来る男性も殆ど居ないだろう。
 羞恥心が性に抑制に大きく関与しているのは疑いない。しかしこの羞恥心はどこからくるのか、何故羞恥心を感じるのかは、何故性欲を覚えるのかと同じ位謎である。

 性には快楽の要素があると共に、抑制が大事であることはかのシェークスピアもよく理解していて、作品の中にも暗示的に著わされている。悲劇の名作「ロミオとジュリエット」の中で、深夜のバルコニーでお互いの愛を交わした二人が、再び再会しようとする際に修道士ロレンツォにロミオが窘められるシーンだ。

romeo&juliet

 “These violent delights have violent ends And in their triumph die, like fire and powder, which as they kiss consume. The sweetest honey is loathsome in his own deliciousness and in the taste confounds the appetite. Therefore love moderately; long love doth so; Too swift arrives as tardy as too slow”

 「このようなはげしい喜びにははげしい破滅をともなう、
勝利のさなかに死が訪れる、火と火薬のように、
口づけするときが四散しはてるときだ。
甘すぎる愛はその甘味ゆえにいとわしく、
味わうだけで食欲も消えはてるもの。
だからほどよく愛するのだ、それが永き愛の道、
いそぎすぎるのはおそすぎるあゆみと同じことだ。 (小田島雄志 訳)」
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