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エッセイ

スカートの中



 以前から論じてみたい話題があった。題目は漠然としていて、何を論点にしたいのかも明確でなく、なかなか書けないでいた。
 今回は、論点がぼける、あるいはいろいろな方向へ発散するかもしれないのだが、敢えて論点を整理し、まとめる為のドラフトとして思いつくまま書いてみることにする。
 きっかけは何だったか、はっきりしないのだが、つい最近あった何かの出来事で、この話題について、再度書いてみたいと思った。だが、それが今はもう思い出せない。
 次のきっかけは、今朝のネットのニュース。元タレントの田代まさしが、覚醒剤不法所持、及びナイフの不法所持という銃刀法違反容疑で逮捕されたということだ。
 この事件自体はきっかけではなく、その記事の下のほうに記載されていた過去の逮捕で、駅構内にて女性のスカートの中を盗撮した都迷惑防止条例違反容疑があったということからである。
 論点のうちのひとつは、女性のスカートの中を覗く、或いは盗撮することが罪になるのかという問題である。
 単純には疑いようのない話で、罪の重さはひとまず置くとして、有罪にあたることは疑いがない。しかし、その必然性には疑問の残る問題でもある。
 このことは、何を猥褻とするかという、時代、時代で変遷してくる風俗意識の問題があるように思う。
 女性がスカートの中を覗かれるということが、今の時代にあっても通常恥ずかしいことであると考えられるのは間違いないだろう。しかし、既に一部の女性にとっては、何でもないことと考える者が居ることも事実で、それは確実に増えつつあるのも間違いない。
 一方、スカートの中を覗きたいと考える男性が居ることは、これまた確かな事実で、おそらく男性の殆んどがそう考えていることを否定する人も居ないであろう。
 しかし、覗きたいけれど、覗いてはならないというのが、社会のルールであり、秩序である。これは他人の物であっても、お金は出来るなら自分のものにしたいと思い、しかししてはならないのが社会のルールであるのと、ほぼ同様だ。
 では、何故してはならないのかということに、納得のゆく論理的な説明がつくのか、考えてみる。他人のものを盗むことが何故いけないのかは、かなり人間の根源的な問題で、冷静になって考えてみると、論理的な説明は出来ないことに気づく。
 実際、人類の歴史は、略奪の繰返しで出来ているという否定できない事実があり、平和国家が築かれていると人々が思っている、或いは思いたいと考えている現代においても、実際には脈々と続いているというのが真実である。
 キリスト教の前身であるユダヤ教の聖典の中、十戒のうちに明確に「汝、他人のものを盗むなかれ。」と書かれている。これは、翻って考えてみると、諭されねば自明のこととして、自らを律することが出来ないことだからだと考えられる。
 人を殺してはならないこと、姦淫してはならないことも同様である。神を信じねばならないことと同じくらい、人間にとって自明のことではないのである。
 他人の金を盗むことがいけないということすら、このように何故かという問いには脆弱である。まして、女性のスカートの中を覗くのが何故いけないのかということに論理的説明を加えるのは、如何に困難なことかがわかってくる筈である。
 これは、殆んど全ての男性が、覗いてみたいという願望を持っていること、そして男性はそういう願望を持っていることを、男性、女性を問わず、すべての人間が知っているということを前提にしてのことである。
 著名人、警察関係者、教育関係者がこの陥穽におちいり、極悪非道の如く叱責を受けるのは、後を絶たないことも、この問題が如何に納得にしくい犯罪であるかを示しているようにも思う。
 なかには、この著名人、警察関係者、教育関係者に付与される完膚無きまでの仕打ちを怖れて、だからしてはならないのだと考えている者も居るだろう。逆に言えば、そういうことが無かったならば、進んでしてしまおう、してみたいと考えている者も居るということである。
 最近の風潮の中で、この問題を更に厄介にしているのは、女性による挑発という行為である。わざわざ指摘してみるまでもなく、女性、それも若い女の子(これは一般人の性的欲情の対象になる、児童という範疇を外れた年齢に達した、中高生以上を指す)のスカート丈は短くなる一方で、普通の生活、素行をしていても、スカートの奥を目撃する機会がどんどん増えてきているということを指している。
 駅などで、下着を隠せるぎりぎりの丈のスカートを穿き、剥き出しの太腿を強調させるルーズソックス(ルーズソックスが何故セクシーなのかは、はっきりとはしないが、多分そういう理由なのだろう)の女子高生は、外国人の指摘を待つまでもなく、街に氾濫しているのは衆知の事実である。見えそうなぎりぎりのスカート丈で挑発まがいの行為をしているのは、女子高生や女子中学生に限らないが、その最たるものという点では(外国人を含め)誰もが否定しないだろう。
 注目すべき点は、先の田代まさしの例を挙げるまでもなく、都迷惑防止条例などの「迷惑」という点を挙げて、罰している点である。
 つまり、これは先の「何故いけないのか。」ということに対して、「迷惑だから。」という答えをしていることになる。
 普通の格好をして、普通では見られないようなところを隠し撮りされ、その写真を何かに使われたとしたら、これは間違いなく「迷惑」と言っていいだろう。
 しかし、股下ぎりぎりの丈しかないスカートで、風に翻った折にその奥を覗かれた場合に、「迷惑」という言葉が使えるだろうか。その女性はそうなっても仕方ない格好を承知の上でしているのである。
 よくテレビなどで出てくる、顔グロと呼ばれる茶髪、厚化粧でミニスカート、ルーズソックスの女子高生が、「何、覗いてんだヨオ、テメエ。」などと言っているのは暴言の類いである。
 勿論、これまでの送検例でも、風に翻ったスカートの中を覗いたくらいで迷惑条例に引っ掛かった例はないと思われる。隠しカメラを階段下から忍ばせたり、手鏡を伸ばして通常では覗けないようなところを覗いたというものであろうと想像される。
  しかし、問題はこれらのことの境目ということになる。このような行為を犯してしまう側も、それを裁こうとする(裁判官ではない)一般世間人の目も、どこからがいけない行為なのか、わからなくなってしまう所に、これら犯罪がなくならない元凶があるような気がする。
 ちらっと盗み見ることと、さっと隠し撮りをして後でこっそり観ることは、何が違うのか、法律の文章でも明解には記載されておらず、しかもこれは迷惑ということに抵触するからという説明では理屈になっていない。
 「本人ノ同意ヲ得ズシテ、カメラ等ノ記憶媒体ヲ用イテ、通常ハ露見セザリシ場所ノ撮影ヲ為スコト・・・」などとすれば明解に定義できるかもしれないが、手鏡を使うのを禁止するのはどういう表現をすれば明確になるだろうか。
 この問題をもう少し論理的に説明すると、本来、「覗く」という行為を禁止したいのに、「覗く」という行為を犯罪として特定することが難しい為に、確定させやすい「何等かの器具を利用した場合」としようとしているのではないだろうか。
 カメラを撮るということ自身に論理的な犯罪性がない。手鏡を出すということにしてもそうだ。それは覗くという行為に使うからいけないということなのだ。なら、覗くということの犯罪性を問えば判りやすそうなものだが、それが難しいのだろう。
 何故なら、態と見えやすそうな格好をしている者が巷に反乱しているし、それらを決して罰そうという動きもない、犯罪性を問うようなこともないからだ。
 公序良俗という言葉や、猥褻性という言葉はある。これは、先の覗きによる迷惑行為や、痴漢などの行為の反対側にあるようにも思える。
 猥褻物露出行為は、まさしく迷惑行為である。見たくないものを無理やり見せられるということで、ある意味、迷惑行為として判りやすい。
 それならば、「覗かれる」ということが何故そんなに迷惑行為として判りにくいのだろうか。
 それは、「覗かれる」ということ自体が、本当に「迷惑なのかどうか」あやしいという点にあるように思う。見れば不快に思うものを無理やり覗かれてしまうのとは明らかに違う。見るほうは見たいのだし、見られるほうは、それを相手が見たいと思っていることを知っている。それでいて、そうなることを助長するような格好をしているのだ。
 私だって、自分の陰茎の写真を盗み撮られて、それを公開されたりしたら嫌だ。しかし、そんなことをしたいと思ったり、しようとしている輩が居るとは思えない。
 が、女性のスカートの中に関しては、訳が違う。「まさか、スカートの中を覗きたいと思っている男性が居るなんて、思いもしなかったわ。」そんなことをいう女性が居たら、それは嘘つきだ。
 「まさか、スカートの中を実際に覗いたりする人が身近に居るなんて、思いもしなかった。」ぐらいなら、半分は本当かもしれないが。
 涼しいから、動きやすいからというような理由で、ミニスカートを着用する女性はおそらく居ないだろう。明らかにそれは男性の目を惹くからであって、男性にとって羨望的に移るということを知っているからである。その前提があるからこそ、その先にあるものを迷惑行為であると当然の理とすることが難しいのである。
 従って、「覗いたこと」自身よりも、隠されたカメラを用いたこと、手鏡を使ったことに犯罪性を問うのである。それはある意味、迷惑というよりも「ずるい」というほうが感覚的に判りやすい。
 社会ルールに従わない方法を用いて、己の欲望を満たしたのだから、「ずるい」というほうが、間違いなくわかりやすい。「ずるいことをしてはならない。」というルールのもとに罰するのならば、していいかどうか、世の男性は悩まなくて済む。
 確かにお金さえ出せば、スカートの中のものなど幾らでも見たり手に入れたりすることが出来る。自分の妻として獲得した女に対して、そういう行為をした場合、世の中の人は罰するであろうか。責めるであろうか。
 このことに対する答えはおそらく無いだろう。それは触れてはならないことで、世間で大っぴらに話されていい話題ではないからだ。自分の愛する者とそういう行為をすること、それがいいことかどうかは、その当事者同士の問題で、他人に口を挟まれたくない、また他人事には踏み込みたくない話題である。
 しかし、自分の愛する相手ではない場合、お金を払って同意を得たのでもない場合、そういう行為をすることを良しとしていない。何故だろうか。
 世の男性、殆んどすべての男性にとって、このことは「ずるい」からだという答えになるのではあるまいか。
 一方、女性に取ってはどうだろう。「恥ずかしいから。」、「不愉快だから。」、「(男性と同じく)ずるいから。」様々な答えが返ってきそうな気がする。男性には女性の本当の心理は理解出来ないものがある。しかし、少なくとも「恥ずかしいから。」、「不愉快だから。」と答える女性は、見えるか見えないかぎりぎりの格好をして世の中を闊歩する人は居ないように思える。
 この話を、「盗みをする」ということにすり替えて考えてみる。先に、他人の金だって欲しいと思うことはあるというようなことを書いた。仮に、誰もいない玄関先に、一万円札の束を置いておいたとしよう。これを黙って持ち去ることは犯罪であることは誰の目にも明らかである。しかし、その傍を通った人が、それを持ち去るという誘惑にかられないだろうか。
 「持って行ってもいいという意志があると紛らわしい。」という人が居るかもしれない。それならば、「持って行かないでください。」という札でもつけておいたらどうだろう。却って盗みを助長してしまうかもしれない。そんな馬鹿なことをする奴は居ないから問題ないというかもしれない。
 高価な宝石装飾品の類いを、あらゆる場所に飾り立て、それを付けたり外したりして、そこらに不用意に置いたりする人はあるかもしれない。これは傍目には不愉快な行為だ。盗まれても、周りにいる人は「いい気味だ。自業自得だ。」と冷たいかもしれない。迷惑防止条例で取り締まるほどのことではないかもしれないが。
 しかしながら、盗みをすることを挑発するような行為があったとすれば、通常の人ならば、そういうことをした人を批難するだろう。
 性的な挑発というのは、しかしながら盗みと違って少々複雑だ。性的な挑発行為を不愉快に思う人と、好ましいとする人が居るからだ。
 男を挑発するような格好をして、それにむらむらっとなったある男が、そういう行為をしていない女性につい手を出してしまったとしたら、その女性は誰に対して批難をすべきなのだろうか。罪はそういう行為をした男性にあるのだろうが、迷惑は、むしろ挑発行為をしていた女性に対して抱くべきものではないだろうか。
 そういう危険性があるからと、淫らな格好をすることを迷惑行為として禁止し、罰することにしたらどうであろうか。一部の男性からは、反対の声が出て、禁止することを「余計なお世話。迷惑。」と言うかもしれない。一部の女性からも同じ声があがるかもしれない。


 性的な犯罪を挑発するような行為に対して、犯罪性を問うたり、罰則を求めることは比較的少ない。比較的と言ったのは、一部のイスラム系社会では、女性が膚を公衆の面前で露出することを禁止しており、正確には知らないが多分罰則もあるのだろう。
 しかし、イスラム社会でもこういうことを取り締まるのは、宗教警察であって、遵法警察ではない。法による犯罪ではなく、倫理(宗教や神が教える教え)に反する行為だからなのだろう。
 日本社会では、この宗教的な違法行為(法律ではないから違法というのは適切でなく、禁忌行為とでも言うべきか)という意識は少なくとも現代社会では非常に薄くなっている。せいぜいが多重婚、近親相姦の類いぐらいしかないのではないだろうか。これとても、法律で禁止しているからいけないのだと理解している人も居る筈だ。不倫に至っては、公然と許容している人も居なくはない。
 同性愛や性同一性障害などになると、個人的な好き嫌いの感情はあっても、禁忌性を問うというような風習は少なくとも日本では無いように思う。勿論、村八分のような仲間はずれという暗黙の行動はあるかもしれないが。個人レベルでその是非を論じることが出来る人はおそらく居ないだろう。いけないことの根拠が説明出来ないし、世の中もそれを容認するように動いてきているからだ。米国に至っては、賛成派と反対派の大論争にまでなっている。
 話が若干発散気味になったが、性的な犯罪を挑発するような行為に関しては、概して日本社会は寛容である。これは個人的レベルでは、好ましい刺激となっているからかもしれない。
 バイオレンス映画なども、その反社会性、反教育性は取り沙汰されるものの、一向に社会から無くなる気配はない。このことと似ている気がする。明らかに暴力嗜好は、ある限られた人の衝動だが、性的欲望は万人に広くある衝動で異なっては居るのだが。
 性的挑発行為に対する寛容さは、逆に道徳家と目される、或いはそうあるべきと世間から決め付けられている著名人、警察関係者、教育関係者に対する執拗なまでの訴追行為とはバランスを欠いているとさえ思われる。これは日本人本来の性分というよりは、マスコミによって歪めて作られた極最近の風潮なのかもしれない。
 江戸時代には、つつましさを良しとし、ふしだらな行為を戒める動きとともに、起きてしまった性犯罪まがいの行為には意外に寛容であったように見受けられる。


 痴漢行為は、明らかに迷惑行為であり、迷惑条例で取り締まるのは納得できる。しかしながら、もし本人にそういう意図がないのに、痴漢嫌疑を掛けられたとしたら、これもまさしく迷惑行為である。朝の満員通勤電車などは、好んで乗っている人は殆んど居ない筈だ。しかし、安く、早く目的地へ辿り着こうとするならば、仕方なく乗るものである。また、全ての人はそういう電車に乗る権利がある。(勿論、安く、早くというのを達成する為であるが。)
 痴漢の疑いを掛けられる可能性があるから、そういう電車に乗ることが出来ないという男性が居るとすれば、その人は権利を剥奪されていることになる。
 美しい女性が肌を顕わにして、傍に近づいてくれば、嫌な気持ちはしないという男性は少なからず居るだろう。しかし、その直後に痴漢呼ばわりされたり、痴漢嫌疑を掛けられたりしたら、迷惑甚だしい。そんなことになるならば、迷惑だからそもそもそういう女性は乗らないで欲しいと思っても不思議ではない。
 満員電車の走る通勤時間帯に、女性専用車両があるにも関らず、男性の居る満員車両に乗り婚で来る女性は迷惑条例にて取り締まるべきであろうか。難しい問題である。
 また、昨今の女子高生のように、駅構内の急な階段で、短いスカートの裾をひらひらさせている光景も同じである。これは迷惑行為といえるのだろうか。
 好ましい状況と好ましくない状況が紙一重の関係で社会に溢れているのである。


 また、別の観点から不可解なことがある。何が性的禁忌の対象となりうるかという点である。
 スカートの下のショーツを覗き見ることは、禁じられているというのに異論を唱える人は少ないだろう。しかし、殆んど形状的には変わらない筈の水着の下半身部分は露出しているのを見たところで犯罪者扱いされることは普通ない。よっぽどのやり方で注視でもしない限りだが。
 下着と水着は形状の上では何等変わらないのに、その犯罪性の認識には天と地ほどもの開きがあるのである。尤も、これは見る側にも似たようなことがあって、スカートの中の下着は覗いてみたいという衝動が発生しても、最初から露出されている水着には、全く同じ衝動を抱けないという点である。
 この問題を難しくするのは、昨今の女子高生、女子中学生の間で横行している所謂「見せパン」というものの存在である。短いスカートは穿きたい。しかし下着は見られたくない。その為、見られてもいい厚手の黒っぽいショーツや短パンという形状の異なるものをスカートの下に着用する。
 一見、何の矛盾もないかのようであるが、これは様々な意味でおかしい。世の男達は短いスカートの下に下着を想像するからこそ、短いスカートに心を惹かれるのであって、最初から「見せパン」と判ってしまっていたなら、注目したりはしないだろう。
 現に、見せパンのはみ出したスカートや、見せパンにすらなっていない膝丈で切ったスエットパンツを下に穿いたままの短いスカートは、男に取って興ざめを通り越して、見苦しいだけのものでしかない。
 男に媚を売るのの得意な女性は、この辺が実によく分かっていて、たとえ見せパンで防御していたとしても、決してそれを悟られない所作をしているものである。つまり、見せパンは見破られていないところに価値があるものなのだ。
 さて、そういう見せパンの存在を前提としてだが、ここに犯罪性が絡んでくるとややこしいことになってくる。例えば、見せパンを穿いた短いスカートの女の子を下から盗撮した場合に犯罪性があるかという点である。犯罪の未遂行為にはなりそうだが、既遂とするかどうかは難しい。
 覗かれると困る(迷惑)だから、そういうものを穿いているのであって、そうであれば覗かれてもいいということになる。一方、加害者側からすると、未遂行為とは認めるかもしれないが、既遂とは納得がいかないだろう。ここに、先の「本質的には、(覗かれたくないものを)覗くことがいけないのであって、撮影すること自体がいけないのではない。」という理屈が生きてくる。
 撮影したことで罰しようとするから、写されたものが(見せてもいい)見せパンだった場合の犯罪性立証の根拠が薄弱になってしまうのだ。
 写真撮影には肖像権の問題があって、これで犯罪性を問うているという立場もあるのだが、この場合は明らかに間違っている。この問題については後述することにする。
 ここでは、本人と特定出来ない、顔の判らない下半身のみの場合であっても犯罪性が問われるのだから、肖像権の問題ではないとだけしておこう。
 見せパンですら、これだけ問題がややこしいのに、更に難しい問題を持ち込む。スカートの下に下着と見かけ上区別の付かない、例えば白っぽい水着を着ていた場合どうなるかという点について考えてみる。
 同じ水着を着ていた場合、もしスカートを着用していない格好を盗撮されたとすると、これの犯罪性を問うのは非常に難しいように思う。この場合は肖像権ぐらいでしか問題に出来ず、もし顔が判別出来ず、肖像権を問えないとすると、世間に幾らでもある水着写真の撮影とどう区別すればいいのかということになる。
 しかし、実際には下着ではなくても下着にしか見えない水着をスカートの下に着用していて、それを盗撮されたとなると、された行為自体はスカートの下の下着を盗撮された場合と殆んど違いがなくなってしまう。しかし、先の水着を写された場合と何が違っていて、どうしていけないという理屈、論理づけにするのだろうか。
 確かに下着に見えなくもない水着を着用してのスカート覗きは、扇情的である。しかし、扇情的ということで犯罪性を問うのであれば、そういう格好をそもそもしたことが扇情的であって、写された被害者のほうにも罪を問わないとおかしい。
 水着やレオタードだって、他人に写真を写されたら恥ずかしいという女性は居るだろう。しかし、だからといってこれをスカートの下の下着と同列にすることにはやはり無理がある。現にその格好を公衆の面前に晒しているのだから。
 この議論において、隠されたものを覗く行為がいけないとする理屈があるかもしれない。隠しているものを無理やり見るということをいけないとする考え方である。この考え方はある程度納得しやすいものである。本人の意思に反することを強要する訳であるから、迷惑は勿論のこと、強盗、強姦などの凶悪犯罪に類似しており、犯罪性を認めやすい。
 この場合、問題になるのは、どこまでを隠している行為とするかである。通常のスカートは下着を隠す衣服と考えるのは自然であるが、丈の短いミニスカートとなってくると、短ければ短いほど、判断は微妙になってくる。
 もし、仮に普通に立っている状態で下着が覗くほど短いスカートを着用していたとして、それを見たり、写真に撮ったりしたからといって、迷惑条例で罰するのはどう考えても無理がある。むしろ公序良俗を乱したとして、撮られたり見られたりした側の非を問うのが通常の常識であろう。
 それならば、覗けるかもしれないミニスカートを着用していた場合は、隠そうという意志のないものとして、迷惑条例の対象外とすることが妥当かということになる。
 これにも理はあるが、絶対に覗けないスカート丈というものはそもそも存在しないだろう。逆に、「もしかしたら覗けるかもしれないと想像される着衣をスカートと呼ぶ。」と定義したほうがすっきりするかもしれない。
 「キュロットパンツはスカートかどうか。」という問題が別の観点で論議されることがあるが、この論点に関する答えにもなっているかもしれない。もしかしたら、(性の根幹に関る部分が)覗けるかもしれないという可能性を秘めた着衣なので、「女性にスカートが似合う、もしくは女性を魅力的に見せる」ということなのかもしれない。
 ちなみに、この話は、更に発展させると、「男性器がもしかしたら覗けるかもしれないという男性用着衣はセクシーか。」という問題になり、「何故女だけがスカートを穿くのか。」という、男と女の根本的な違いという議論になるので、これ以上ここでは追求しないことにする。
 所詮、スカート覗きに関して犯罪性の立証をするのは理屈、理論の上では不可能としか思えないのである。


 次ぎに肖像権侵害の問題を考えてみる。
 肖像権とは何かということを、適確に表現するというのはなかなか難しいことのように思われる。筆者の理解はこうである。「人の顔かたちはその人固有のものである。それ故、その人であると他人は認識できるのである。このその人であると認識出来る画像を利用する権利は、まず第一義にその人本人に所属する。この権利を他人が勝手に行使することを禁止し、本人の権利を保護するのが肖像権である。」
 この場合、「画像」という言葉が微妙な意味合いを持ってくる。画家がある人の肖像を描いたとして、その描かれた絵は描かれた人、描いた人のどちらに権利があるのだろうか。
 法的には定められているのかもしれないし、現時点で私はその存在を知らない。が、物の理屈として考えると、本来、その絵の価値が、描かれた対象としての人のほうにある場合は、描かれた人のものに権利があり、描いた人の故に価値がある場合は描いた人のものと考えるべきであろう。
 著名人を無名作家が描いた場合、その絵を利用して益を得る権利のあるのは、その絵が如何に精巧で本人を如実に描き表わしたものであろうと、描かれた人の権利であろう。
 無名の人を著名画家が描いたものは、どれだけその人に似ていようが、似ていなかろうが、著名画家の権利のものであるのは、誰もが認めることではないだろうか。
 それならば、著名人を著名画家が描いた時は、どうなるのか。無名人を無名画家が描いた場合はどうなるのかということになる。
 後者の無名人を無名画家が描いた場合は、そもそもその絵に価値がないので問題にならないだろう。後日、そのいずれかが著名になれば、その人に権利があるということになる。
 前者の場合は、その絵の帰属がどうなるかを決めずに描かれるということは通常考えられないので、これも問題が起こることは通常無いだろうが無いとは言えないかもしれない。
 カメラの画像はどうかということになると、これは自明である。カメラには写した人によらず、その本人であるという認識が出来るので、写した人に権利が発生するとは思われない。
 勿論、著名なカメラマンが写した場合、その写真にそれ故に価値が生まれるということはある。しかし、その写された本人以外を用いては、その人と認識出来る写真を作ることは出来ない筈なので、如何に高名な写真家であろうと、肖像権を写した側が持つということはないであろう。
 肖像権の難しさは、しかしながらもっと別の場所にある。カメラで撮られた画像は、撮られた方に権利があるといって、世の中にはその人と識別出来る画像が山のように溢れているからだ。
 その一つひとつ全てに渡って、肖像権を論議することは物理的に不可能である。
 この解決策として一般的に取られているのが、(肖像権を)問わないという解決方法である。一つひとつに亘って、肖像権論議をしていたらきりがないので問わないということである。
 しかしながら、逆に言えば、「問うことが出来る」、「問う可能性がある。」、「問われるリスクがある」ということになる。
 よく問題になるのが、台風の状況を報道する街の映像である。人が居て、暴風に遭遇しているからこそ、台風の報道として、その状況を伝える格好の被写体となる。
 が、その風でスカートでも翻っていたりしたら、それこそ迷惑条例の本来の趣旨にあたる。実際にはしかしながら、これに限りなく抵触するぎりぎりの映像が、台風の報道映像というと必ず存在するのが不思議だ。それら全ての被写体となった人に、肖像権を放棄する意思確認をしているとは到底思われない。
 それはさておき、肖像権には本質的な難しさがある。人は他人から目で見られることまでは保護されることは出来ないということである。カメラで撮られることは、拒否出来る(肖像権侵害として)のだが、見られること自体は拒否しようがない。
 カメラで撮られることと、見られることの違いを正確に定義することも難しい問題である。見られるのはいいのに、撮られたものを見られるのは何故いけないのかということになるからだ。
 この場合、撮られた写真を見られることを禁止、あるいは拒否するのではなく、それを利用して勝手に金儲けをすることがいけないのだと解釈する考え方もある。撮られた写真がある価値を生み、それから利益を得るとしたら、その第一義的な権利を有するのは、撮られた人本人であるという考え方である。
 しかしながら、金儲けに使わず、無償で公開するのならば良いのかというと、そうではない。勝手に撮った写真を勝手に公開したら、それはそれで肖像権侵害になる筈である。この場合は、本来価値のあるものを、勝手に無償で処分したと考えられなくもない。他人の金を盗んで、町でばら撒いたというような行為に相当すると考えるのである。
 ここまで考えてくると、他人の写真を撮影することは、すべて肖像権を侵害する(本人が後で主張すればということだが)可能性があるということになる。
 今度は別の視点の問題を提起する。防犯カメラは肖像権侵害という観点で違法かどうかということである。
 この場合、防犯カメラは意図的に撮るのではない。被写体のほうがカメラの視野にある意味勝手に入ってくるのである。勿論、防犯カメラがあることを承知の上で、そこへやってくる人もいれば、知らないうちにカメラの視野に入ってしまった人も居るだろう。防犯カメラの存在を告知すべきかどうかということも、微妙な問題で是非の分かれるところだろう。しかし、その前に全ての防犯カメラの存在をそこの視野に入る可能性のある人達全てに衆知徹底することは現実的には無理であると考えられる。防犯カメラは知らずに撮られてしまうものであるということは前提にせざるを得ない。
 となると、撮られることは承認せざるを得ないということになる。ならば、その利用についての制限が出来るのではないかという解釈が次ぎに出てくる。
 防犯カメラの映像を、その本来の目的を逸脱させて、スクープ映像として報道したり、編集して他の意図の画像にして利用したりすれば、これは明らかに肖像権侵害である。
 難しいのは、犯罪の可能性がある映像として報道に使っていいかどうか、犯罪捜査の意図があると主張してその映像を観ることは誰にでも許されるのかということである。
 これについては、簡単に答えを出すことは難しい。倫理性が問われることになる。すなわち考え方によっては、違法行為とも遵法行為ともとれ、係争を生み出す元になるということである。
 このように、肖像権という問題も、その合法性を問うのはことほど左様に難しいものなのである。

 2004.9.23 記


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