文科省命の安全教育

エッセイ


性教育の欺瞞


 性教育について調べていて驚くべき資料をみつけてしまった。冒頭の挿絵である。文科省が出しているもので、一応生命(いのち)の安全教育教材と名打って「性教育」とは謳っていない。しかしどうみても性教育用の資料だろう。
 性器を何故隠さねばならないのかを説明しているようでいて、説明になっていない。この資料を作った男か女かは分からないがその人物は性教育が分かっていないのか、考えたことがないのだろう。どちらかと言えば、性教育にかこつけて如何にも教育者らしく見えそうな多様性の許容とかマイノリティの養護に話を摩り替えている。
 LGBTを始めとするマイノリティ養護論については別の意見があるのだが、それは置いておくとして性器を何故隠さねばならないかについては、子供等が納得する説明が必要だと思う。

 子供に説明するかについてもちょっと置いて、本当のところは性器を露出することは不要な性欲を誘引するからだろう。
 人間はその他の動物や生物と違って発情期なるものが存在しない。もしかすると思春期から更年期に至る前までの長い期間が季節を問わず発情期なのかもしれないが、あまりに長い期間なので普通発情期とは呼ばないようだ。
 そんなヒトであるので、普段から男女ともに性器を露出していると常に性行為に走りかねないからではないだろうか。男は女を観れば犯したい気持ちになる動物であり、女性器を目にすればそのことを思い出してしまうのだろう。女性は男性器が剥き出しであれば犯されることを意識するし、ましてやそれが勃起するのを目にすれば性欲を発情していることを否が応でも意識せざるを得ない。
 ヒトには長い、長い発情期があると共に、性欲を抑止しなければならないとする文化があるのである。しかしそれは性の哲学に関わる難しい問題で幼年期や思春期の若い男女に話して判る話ではない。
 性は将来来る自分と自分だけの相手にとって大事な営みであるので、その時が来る迄抑制しなければならないのだと本来は教えなければならない。しかしこれとて子供には理解し難い話で言ってわかるものではない。

 大事なものは隠さねばならない。それが世の中のしきたりなのだと理解出来ないながら教え込むのが肝要なのではないか。その例として神社仏閣にはご神体なるものが存在し、それは隠されていなければならない神聖なものである。特に伊勢神宮、出雲大社には世の人の目には触れてはならないご神体が人々の目からは隠されて存在するのだという説明が子供には分かりやすいのではないだろうか。

 蛇足になるが、文科省の挿絵の最後に「かおもたいせつだよ」は何が言いたいのだろうか。キスはむやみにしてはならないとでもいいたいのだろうか。欧米人のキスの習慣はどう説明するのだろう。まさかフェラチオやクニリンガスもいけないと言いたい訳ではないと思うが。 性器は隠すのに顔は隠さないのだから矛盾していることに気づいていないのだろうか。


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