エッセイ
性教育の必要性
先日、偶々テレビを観ていたら二人のコメンテイターが夫々自分の時代の性教育が今の性教育とは違っていたようだと話していた。二人夫々の時代も異なっていたし、私自身のものとも違っていた。
今の時代の性教育がどんなものだったか、二人のコメンテイターのそれぞれがどんなものだったかは忘れてしまった。私自身の時の記憶ももう薄れてしまっていて、どんなものだったかはっきりとは覚えていないのだが、薄っぺらな教科書的なものであまり役に立つようなものでなかったという印象だけ残っている。性教育で教えて貰って良かったと思ったことは何もなかった。
その番組を観た時に感じたのは、性教育はどうあるべきかではなくて何故必要なのかが全く語られていないことに対する違和感だった。
人類は有史以前からセックスをして子孫を増やしてきたので、性教育がなければセックスの仕方が分からないとか、子孫が残せなくなるということはない筈だ。考えてみるとすべての動物や昆虫から下等生物に至るまで性に対する教育がなければ交尾が出来ないとか子孫が残せなくなるということはない。どんな動物や生物でも本能的な感覚で交尾をしているからだ。だとすると何故性教育は必要だとされているのだろうか。
セックスの仕方を教える為とか、子孫をちゃんと残せるようにする為に必要という訳ではないことは自明だ。私自身の経験でも性教育の際にセックスの仕方を教えられたという記憶はない。
自分の経験で言うと、教えられていないのに知っていた、そうではないかと感じていたことがある。女性は感じると、性器の内部が濡れるということだ。中学生の頃に初めて書いたエロティック小説の中で想像でそう書いている。その時は何となくそうではないかと想像して書いたのだが、後に色んな文献でそのことを知って当たっていたことに驚いたのだ。本能的にそうではないかと思いついたことに自分の中に動物的な本能を感じた一瞬だった。
思春期とか第一次および第二次性徴期の身体の変化とか、妊娠出産に至るプロセス、女子の月経、排卵期などについては一通りの説明があったような薄っすらとした記憶はある。
避妊の仕方については、最近は性教育の一環で教えているらしいのだが、私の時代にはそれは無かったと思う。避妊の仕方は性教育には必須なものではないのか、昔は必須と考えられていなかったのかもよく分からない。しかし正しい避妊の仕方を教え始める前に性教育というものが存在し始めていたのは確かだと思う。つまり性教育は当初から避妊の仕方を教える為にあったという訳ではないのだろう。
性教育が何故必要なのかを考えてみると、一つの仮説として間違った妊娠をしないようにする為というのがあるのかもしれない。それと同時に教育の機会は平等でなければならないという思想が背景にあるのだろう。間違った妊娠というのは、経済力のない若い女性が無知から性行為をしてしまうことで、無理な妊娠、出産に至って母子ともに不幸な人生を辿るということを指しているのだろう。江戸時代までや、明治、大正、昭和初期と言った身分制度が厳然として存在し、教育の機会均等という概念が無かった時代でも、部落社会、長屋や村社会で貧しいながらにお互いに助け合う仕組みや、家督を中心として大家族の中で支え合うということが自然に出来ていた時代はこのことは問題なかったものが、次第に家庭の核家族化により、貧困層は助ける者が居ないと言う社会が形作られていくにつれて教育機会の均等、平等の重要性が叫ばれてくるようになり、性教育もその一つだったのではないかと思われる。
昔は親や祖父母だったり、兄や姉といった兄弟姉妹の先輩格だったり、身近にいる教育者、おそらくは昔はそれなりの身分の良家に存在した執事や侍従、乳母といった存在だったり個人的家庭教師や師範といった存在などが密かにこっそり教えていたのだろう。春画などというものもそういう時代に生まれたのではないかと思われる。しかし、それは限られた富裕層だけの話であり、それだとそういう教育を受けられないものが必ず出て来る。それで性教育に関しても教育の機会の平等性を担保する為に公共教育機関で教えなければならないという発想が生まれてきたのではないかと思われる。ただしこれは全くの私の私見に過ぎない。
こういう風にすると妊娠に至り子供が産まれる。だから気をつけなさいということだろう。後の時代になって避妊について教えるようになるのもより直接的にこういう意図を実現する為だろう。昔は、こうすると子供が出来る。だから気をつけなさい。あるいはこうなって子供が産まれていいかどうかは貴方が考えなさいということだろう。性教育は今のところ子供を作っていいかどうかは教えていないようだ。貴方がいいか悪いか考えなさい。いいか悪いかは教育では教えられないということではないだろうか。そうなるとある意味、これは無責任と言ってもいいかもしれない。
日本の法体系の中に、性行為をして妊娠に至る行為をしてはならないとされる年齢があったように思う。確かこれは男性に対して、してはならないとされる決まりであって、年齢は女性の側の年齢だけを指定していたように思う。全ての男は何歳以下の女子と性行為に至ってはならないという決まりだ。しかしこのことを教えるのが性教育の意図ではないようだし、私自身も性教育でそういうことを習ったという覚えはない。今現在、私自身が不確かなように、こういうことを正式に教える場というものは日本には存在しないのだと思う。
性行為をして女子を妊娠させる行為をしていいかどうか(女子の場合は自分自身が妊娠に至る行為をしていいかどうか)は性の倫理の問題である。これは性教育でも教えないし、倫理社会の授業でも教えない。先生が教える際に、生徒が「え、どうしてですか?」と問われたら答えられないからだろう。性の倫理について正しいかどうかは簡単には教えられる問題ではない。
従って、性教育ではどうすると妊娠に至るかは教えるが、いいかどうかは自分で考えなさい。私は(先生は)知らないという立場の教え方だ。最近では避妊の仕方もついでに教えるが、避妊しなくてはならないかどうかは自分で考えなさい。私は(先生は)知らないという立場なのだろう。私が無責任だとする所以である。
性には快楽(エロス)と禁忌(タブー)というものが存在する。これも性教育では扱わない分野の話である。性欲と節制という概念もある。これも性教育では教えない。性には公にしないことで保たれている秩序というものがある。これは性教育などであからさまに教えるという立場とは正反対のものである。
例えば、男は女を縛ると性欲が増すということ。女性の場合は自分が実際に女ではないので女性は縛られると感じるのかどうか分からないが、少なくとも男性の相手に縛らせると相手は感じるということは知っている。論理的に何故なのかという説明は出来ない。女性が男性にパンツを見せると性欲が増すというのと同じだ。女性は少なくとも相手の男性が自分がパンツを見せると感じる、あるいは勃起度が増すということは後天的な知識であれ、先天的な本能であれ知っている。だから女性はミニスカートからパンツを覗かれるの嫌がる、あるいは嫌がる振りをするが、それでも敢えてパンツが覗きそうなミニスカートを穿きたがるのだ。
性に対する秘匿、節制といったものが健全な性欲を育み、またそれによってより高い快楽を得られるというのが私の持論である。無節操な性の解放は草食男子に代表されるような性欲の減退を招き、晩婚化、生涯独身を増長し、少子化に拍車を掛けるものとなると私は考えている。
それを救うのに今のところ性の倫理を扱えない性教育は何の力も果たさないと私は考えている。
性欲はなぜ起こるのか。性欲は何故快楽につながるのか。性欲は何故隠さなければならないのか。これらは何故種を絶やしてはならないのかと同様に哲学的問題であって、生半可な歴史の浅い性教育などで扱える筈もない高尚な学問の部類であると私は考えている。そういうものは誰にでも教えれば判るという範疇のものではなく、難しい哲学を理解できる、あるいは理解しようとする極一部の人間の為のものかもしれない。
一方、こういう行為はその後の不幸な人生を生むという不用意な性交渉の節制とか避妊の必要性とかいう知識は、読み書き算盤程度の誰にでも必要な基本的知識であり、社会の底辺まで知らしめる必要のある学習内容なのかもしれない。
性教育が果たさなければならない役割は、高尚な性の哲学を教えることではなくて、もっと低次元の読み書き算盤のようなリテラシー、知らないことで不幸に陥るのを避ける為のより現実的な知識を平等に授けることなのだと認識を改める必要があるのではないだろうか。
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